コロナ渦は「自分軸で強く生きるのか?」「他人軸に弱く生きるのか?」を問われる時間だったと思う。

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嘘か本当かわからない情報に翻弄され、外出の自由を制限される日々。旅行をあきらめたりマスクをつけたりを守れば、多数派であるというなんとなくの安心感を得ることができる。だけどそんなの一時的な気休めにすぎない。それをすることで得たものは「なんとなく無難に生きた」時間ではないだろうか。

それ以上に二度と戻らない自分らしく生きる時間を失ったことに多くの人は気づいていないのではないか。

私も例にもれず、初めの半年間は多数派にあわせて選択していた。その期間はあまり記憶がないくらい何もなかったのだと思うが、「当たり前の幸せ」に気づかせてくれたことはすごくよかったのだと思う。

メディアで報道されることも人がいうことも一つひとつ、その根拠がどこにあるのか?を考えるようになった。そして、思考停止で「~しないならだめ」と決めていたものを少しずつ手放していった。

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自由の制限と周りの目と自分の意思。これらを両立することは難しいと知りあきらめる。それはなにも悪いことでもなく、自分らしく付き合える人とだけ付き合っていける新たな時代の幕開けでもあった。

不要不急の外出を控える。なにが不要不急なのかは人によって異なる。だから私たちに求められていたのは、周りの言動を監視してたたくことではなく、自分の優先順位を明確にすることだったのだと思う。

明日死んでも悔いのないように生きよう。長く生きられるように健康的に生きよう。そのために必要なあなたにとっての幸せの定義、大切なものの言語化、優先順位をもつことだ。

日頃から自分軸で生きていればなにも難しくないのだろう。だけど他人軸の人が多い日本では大きな変革のきっかけになってもくれる。

ああ、なんていいきっかけなんだろう。その流れに乗れた人、乗れなかった人、さまざまだけど、人間関係は意外と変わっていない。それはお互いの意思を尊重しあえる人と付き合えていた証でもあるのだ。

周りや社会の多数がどういっていようと考えるべきはいつだって「あなたはどうしたい?どうする?」これに尽きる。人を思いやることや配慮することはもちろん大切だ。だけど万人にOKをもらえる選択など残念ながらこの世に存在しない。人との違いを受け入れ尊重し、あなたはあなた、私は私という設定をいつも持つことだ。

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先日、北欧にいって誰一人マスクをしていない様子に驚いた。ここでの当たり前は別の場所では当たり前ではないのだ。だとしたら「当たり前」や「普通」は自分の心地よいものを設定していくといいよね。

うん、それがいい。得体のしれない圧力に流されずいつも自分の確かな心の羅針盤に沿って生きていく。コロナは私に自分軸をより強固にする素敵なきっかけをくれた。