どうしても、私は自分が大嫌いである。

「自分のこと、あんまり好きじゃないんだよね」と、初めて人にこぼしたのはいつだっただろうか。特に覚えていないということは、安易な共感を得たか、そもそも取り合ってもらえなかったかの二択なのだろう。自分の中では非常に大きなテーマだったのに対して、本気で取り合ってもらえることは少なかった。これは今でもそうで、「自分のことあまり好きじゃない」とこぼすと、冗談めいた返答や、「わかるぅ〜」を冠した自分語りが続く。もちろんそれにいちいち落胆しているわけではない。「自分を好きになれない」という爆弾を、ずっと甲斐甲斐しく両手で包んで育てている人間の方が少数なのだ。多くの人にとって、この感情は一過性のものだし、そう真剣に意識し続けるものではない。しかし、私は、かれこれもう大人と言われる歳になっても、自己嫌悪の観念から離れることができずにいる。

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「自分が好きになれない」。この、独白に等しい私なりの深刻な相談の返答たちの中で、その一言一句を記憶しているのは数年前のあの一回きりである。
その人は、非常に真面目で、誰もが認める努力家だった。空き時間という空き時間を呆けて過ごしていることがない。本を読んで、何か紙に書いて、考え込んで、あとは勉強していた。
教室にいない時には部活動の自主練に向かっているらしい。静かな自信家に違いなかった。
そんな彼女と、たまたま二人になることがあった。正直会話前後のことは曖昧で、二人でなんの作業をしたのか、なんの話の流れでそんな深い話に立ち入ったのか、その辺りのことを不思議なほどに覚えていない。しかし、私の相談に答えて、彼女は確かにこう言った。
「うん、私も嫌い。そうなんだよ。大嫌いだからさ、嫌いじゃなくなるように、努力、してるつもり。多分足りてないから、まだ嫌い

自分が嫌い。それを漠然と抱えたままだった私にとって、「嫌いだから、嫌いじゃなくなるように頑張ってみる」というある種簡単なように思える上昇思考のプロセスは、非常に驚くべきものだった。嫌い。そこで終わらせない。嫌いだから、足掻くのか、と。嫌いだからと、ああも静かに努力を続けることができるのか、と。

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「頑張ったら、いつか好きになれますかね」
この言葉を、実際に口に出したのか、心で言ったのかは忘れてしまった。
しかし確実に、この時から、私の夢は「自分を好きな自分になること」になった。
好きな私へと、私が変わる。それが、人生のテーマとなった。
自分への嫌悪が大きいほど、私のこの夢は雄大なものになる。
彼女が重たい鞄を背負って廊下を歩いていく音が遠のいた頃、自己嫌悪と同量の努力を、自分に誓った。

「こんな自分は嫌だ」。いまだに人生で何度もそう思う。まるで呪いかのように、何度も何度も渾身の咀嚼力でひとつしか行き場のない大きな嫌悪感を噛みつぶす。どうなりたい、どうしたい、明確なビジョンは何もないけれど、今のままの自分は好きでいられないし、好きになんてなりたくもない。うずくまって顔を膝に押し付ける。今の自分では生きていきたくない。だから変わりたい。変わらなければいけない。絶対に変わってやる。歯を食いしばって顔を上げる。

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変わることは簡単ではない。自分を変えること、それは今までの自分を殺すことだと思う。
あの日から、自分の嫌いな部分に嫌悪の爪を立てて、弱い自分を殺してきた。
決めたことを頑張れない自分。他人に優しくなれない自分。言い訳ばかりの自分。全員、なるべく深く否定のナイフを突き立てて殺してきた。二度と生き返らないように、深く、深く。こんな自分なら要らない、と。

私の夢は、変わること。変わって、自分を好きになること。
変わることが夢。その夢が私を変えた。嫌いだからと停滞するなと。ずっと変わっていくようにと、私を変えた。
嫌いなら変わればいい。嫌いな自分を認めてくれる誰かを待ち続けなんてしない。好きになれない人間が映る鏡を見つめて、ずっとずっと、自分を好きになれるまで、私は変わっていく。
変わることだけが、変わらない私の信念だ。たとえどんなに辛くても。

いつか、好きになれますかね。