ホテルのロビーにあったウェルカムドリンクのゆず茶を部屋まで運んだ私は、ベッドへ控えめにダイブした。
就職活動真っ只中。数社の会社説明会に参加するべく、ここまで来た。初めて1人でホテルや新幹線の手配をした。そして、これが記念すべき初めての1人旅。観光目的ではないが、空いた時間で観光する気満々だし、1人暮らしをしたことの無い私にとっては初めて1人で過ごす夜。
窓から見えるのは、キラキラしている都会の夜。
「お風呂入るの怖いな〜。『13日の金曜日』のジェイソン思い出してきた...…」と、呟く。
嘘だ。思い出すけど、別にそこまで怖くない。
1人なのに誰に聞かせたい嘘なのかというと、きっと自分自身だ。自分に言い聞かせたい嘘。
「1人でお風呂入るの怖いなあ、あの人に怖いって電話しちゃおうかなあ?そしたら、安心するかも!」
あの人に電話をかける口実。
私は今、1人でホテルに泊まっていて、お風呂に入らなければならないのにホラー映画を思い出して怖くて入れない女の子。よし!
緊張で震える指で、あの人に電話をかける。
◎ ◎
実家暮らしの私は、こんな時しか、好きな人に電話をかけられないのである。
両親に電話の相手を聞かれた場合、彼氏ならまだしも好きな人に電話をかけるなんて言えないし。友達だよ、なんて嘘もつきたくないし。
それに、夜遅くに長電話に付き合わせるなんて、ろくな男じゃないよと言われそうなので、時間を気にして電話をしなくてはならない。
呼び出し音に全身が包まれる。こういうときの呼び出し音って、やけに音量が上がって聞こえる。それにバクバクと鳴る私の心臓の音がパーカッションみたい。
興奮と緊張と自分への嫌悪が交互に打ち寄せる。
やっぱりこんなことで電話するなんて気持ち悪いかもしれない。それに、旅先で隠れてコソコソ、好きな人に電話なんて……。
呼び出し音が止まる。思わず世界が止まった可能性を視野に入れてしまうほどの静けさの後で、
「ん、どした……?」と彼の声が聞こえる。
あの人と電話が繋がっているという事実が、耳から全身に駆け巡る。
今更だけど、猛烈に電話を切りたい。「何でもないです」と今電話を切れば、何にも無かったことになるだろうか。いや、ならない。むしろ、自然に話を続けるよりも何にも無かったことにならない。
それにしても「怖くてお風呂に入れない」なんて動機として弱すぎないか?それも今更だけど。
◎ ◎
はぁ……。
私からかけたくせに、沈黙を決め込むのはまずい。これではただの悪戯電話になってしまう。
「夜分遅くにすみません。あの、明日、会社説明会なので、今県外に来ていてビジネスホテルに泊まっているんです……。明日、頑張ってきますね!」
「お、そうなんだ〜!希望の業界だよね?報告楽しみにしてる」
「そうなんです。明日行く会社は……」
おお!社会人の彼に就職活動の相談をしていた私は、なんとか自然に会話をすることに成功している。心地よくてくすぐったい時間だった。
一通り私の明日の予定を聞いて、
「じゃあ」と彼が電話を切ろうとしたとき、反射的に「お風呂!」と口にしてしまった。
「お風呂?」
「いや、1人なので、お風呂入るの怖くて……。心細いのもあるし……」
しまった……。もう、その電話の口実は必要無くなったのに、今度は電話を切ろうとする彼を引き止める口実に再利用するなよ、私!!
折角ここまで自然な流れで会話が続き、自然に終わろうとしていたのに、私という人間は本当に欲張りなのだ。明日の朝食ビュッフェでも、たくさん食べすぎて会社説明会に集中できなかったなんてこと、無いようにしてくれよな、頼むよ。
「え〜、そうなんだ!なんか可愛いね。じゃあ、もう少し話すか!」
「はい!」
こうして、「私の思惑通り」というべきなのか、延長戦に持ち込むことに成功した。テーブルに置かれたゆず茶は、ベッドにうつ伏せになり、足をパタパタさせ話し込む私の隣でどんどん冷めていった。
◎ ◎
あの人との電話が終わり、時計を見た私は慌ててバッグからポーチやら何やらを取り出す。
「早くお風呂に入らなきゃ!!」
冷めたゆず茶を飲み干して、急いでお風呂に入る。窓から見えた夜景を思い出す。今夜、この街のどこかで窓の外を眺める誰かにとって、この部屋に灯る明かりも、あのキラキラの一粒なのだ。
つい先ほどまで、実家の両親には秘密の柔らかく光る時間が流れていた部屋には、ジェイソンかおばけがいない限り、今は誰もいない。宿泊者がお風呂から上がるのを待ちながら、今夜のキラキラの一粒となっている。
お風呂から上がったら、もう一度ロビーに下りて温かいゆず茶を取ってこよう。
そして、テレビをつけてゆっくり飲もう。シャンプーをしながら、部屋で今夜の余韻に浸る計画を立てる。
その後、私は彼と付き合うことができたのだが、あの旅先の夜、嘘をついたことは秘密にしている。旅先のホテルの一室に閉じ込めた柔らかく光る私の秘密。