入浴は月曜と木曜の週二回。時間は午後の二時から四時の間。
病室まで、看護師さんや看護助手さんたちが順々に患者たちを呼びに来てくれる。
患者である私たちは、風呂道具を手に病棟内の浴場に向かう。
精神衛生上、ひとりでないと入浴できないという患者を除き、だいたい三~四人で広い湯船に浸かりシャワーを浴びる。

鏡に写る自分の裸を見るたびに、私はかなしい。
かなしい、かなしい、と心で何度も呟き、苦しいため息を吐く。
私が今いる精神神経科の閉鎖病棟では、真夏であろうと真冬であろうとこのルールに変更はない。
せっかく寛解したと思っていた病気が、二年前の突然すぎる母の死もあって、呆気なくぶり返してしまった。

◎          ◎

病名は摂食障害。重度の拒食症だ。
この病との付き合いは10年を超える。もちろん今回の入院が初めてではない。
今回の入院は、主治医いわく「一年以内に退院できれば御の字だ」とのこと。
九月でとうとう半年目を迎える今回の入院は、これまでのどのタイミングでの入院生活よりもつらいものがある。

治りはせずとも健康になったところで、喜び迎えてくれる母はもういない。
絶望まではいかないけれど、この落胆はそれに近いものがある。
それに、母の死は確かにこの病気の再発を招いた一つの要因でもあるだろうれど、何よりも自分の弱さこそが大きな原因であり、母の死は言い訳でしかないことも分かっている。
ただひたすら、私はかなしい。

◎          ◎

こんな風に、自分を見つめ直している文章を綴っていると、まるで冷静に現状を把握しているかのようだが、私はまだまだ何もかもが足りない、と自身で思う。
体重は、この半年で十キロ以上ふえた。

体重計の数字よりも、見慣れず気に入らない身体の太さ一喜一憂してしまう。
その度に、母の死を言い訳に、病に屈した自分を責める。
一回りも二回りも太くなった、胴、脚、二の腕。

入院時は車椅子でしか移動できなかったことを思えば、落ち込む必要などないと思う。思うのに。なのに、私は母を恋い、贅肉を憎んでしまう。
入浴自体は大好きなのに。
食べることも大好きなのに。
こんなに健康体に近づいたのに。
母とはもう、会えないのに。

◎          ◎

入浴中、ほかの女性患者さんたちの裸体を目にする度に私は惑う。
あのひとより細いかな、あのひとよりも太いかな…、そんなことばかり考えてしまう。
摂食障害者ゆえの認知のゆがみからは、なかなか脱け出せない。
十キロ以上ふえたとはいえ、自分が標準体型なのか太りすぎなのか、まだまだ痩せているのかも分からない。

誤解をおそれず、見たままの感想を述べてくれた母をまた、思い出す。
お風呂で私は、母を思っているのかもしれない。
ときおり思い出す母の記憶に、この暗闇からは脱け出せそうな、脱け出してまたやり直せそうな、そんなふうに力を貰うことも少しずつだが増えてきたようにも思える。

明日は月曜、週の初めの入浴日。
かなしい、という言葉は「愛しい」とも書くという。
ほんのちょっとでもいいから、明日は自分の身体を、かなしむのではなく、いとしく思えるといいなと願う。