転職をして、東京を離れて丸2年になる。幼少期から習い事で通っていて、大学時代と卒業後しばらくは東京で暮らしたので、なんやかんやで15年以上縁のあった土地だ。一度まったく違う土地で暮らしてみるのも良いかと思い、一大決心というほどのこともなく、転職を機に初めて関東を離れた。友達もほとんど東京にいるし、お気に入りのお店もいくつかあるし、やっぱり寂しくなるかなぁと予想していたけれど、実際に引っ越しが済んでしまうと「もう離れちゃったんだからどうしようもない。新しい場所で自分の生活を楽しもう」という気持ちが大きくなった。
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SNSや雑誌で好みのカフェが目に入ったり、展示やライブの情報を見つけたり、友人同士の集いが催されたりする度に「東京」という文字を見てがっかりすることも、今ではほとんどない。お店やイベントや友達と過ごす時間といった、スナップ写真のような個々の思い出よりも懐かしく思うことが多いのは、東京の時空そのものだったりする。
新宿は大都会だ。駅の乗降客数が日本一で、通勤時に通ると気分が悪くなるくらい混雑している。でも、私は新宿に行くとなぜかいつも安心した。まず、同じ都会でも渋谷や銀座はお洒落すぎて、買い物をするにも食事をするにも緊張感が漂ってしまう。私にはどうしたって、表参道を闊歩している人々が自分とおなじ人間には見えなかった。その点新宿は新しい駅ビルやブランド店だけでなく、もう数十年も営業しているであろうスーパーマーケットや喫茶店、映画館などもあって親しみやすい。時間を持て余した学生だった私たちがぶらぶらしても、誰にも咎められないような雰囲気があったと思う。
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それから人が多いということが、自分の存在をちっぽけにしてくれる。名前や属性が有象無象に埋もれ、「1/乗降客数」になれる。例えば同じカフェに通っても、店員は何百何千という客と接しているのだから、覚えられることは永遠にないと思えてくるのだ。普通、人ごみの中で他人を知り合いと見間違えることはあっても、自分と見間違えることはない。でも新宿でなら、あるいはそういうことも起こり得るとさえ思えてくる。
多くの人がSNSごとに複数のアカウントを持ち、たいていのことはオンラインで済むようになって、匿名性と物理的な距離というシールドに慣れ切った私たち。その使い方を間違えてはいけないのだけれど、どうしてもその膜に守ってもらわないとやっていけない時だってあると思う。私たちはいくつもの名前や属性を持ち、「そのどれもが本当の私ではない」とも、「そのどれもが本当の私だ」とも言える。全てを飛び越えて私という人間を受け入れてもらえることが当たり前ではない人に、その膜は奇妙な心地よさを与えてくれる。
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私にとって新宿という街は「お金で自由を買える」都会を象徴するオアシスだった。それは新宿という街の、魅力と呼ぶにはあまりにもさりげなく、浸透しきっていて、不可視な力だったと思う。
今住んでいる人口10万人弱の何の変哲もない町は、ここで生まれ育った人が多いせいか、東京にはない人との近さがある。どこかそれに羨ましさを感じる自分と、いざ迎え入れられるとぎこちなくて逃げ出したくなる自分がいる。会社の先輩の話を聞いたり、週末のショッピングモールに行ったりするたび、「みんな何て地に足のついた生活をしているんだろう」と思う。そうしてまた羨ましさと気まずさが私を襲って、そんな時、身体の中に東京の時空が流れ込んでくる。コンコースを埋め尽くす人々。人にぶつかることなく最短のルートで改札に向かうため、神経を研ぎ澄ませて隙間と隙間をつなげていく。そしてふと、人ごみの中で目を凝らすと、私によく似た背格好の後ろ姿が見える。