なんでもあるようで何もない。
なんでも手に入るようで、欲しなければ何も手に入らない。
私の東京に対する印象はこんなものだ。

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初めて東京へと足を踏み入れたのは大学3年の時。

友人らとディズニーランドへ行った帰り、各地へ帰るために東京駅へ行ったのが最初だ。

ふらっと一人でうろつけば2度と友人と出会えないのではと思えるほどにそこは巨大で私は夜行バスの乗車場から一歩も動くことができなかった。
私が東京を訪れるときは就職活動だったり、友人の結婚式のためだったり、大抵メインイベントのために訪れるだけで、東京に行くことをメインに訪れたことはない。

そういったイベントのついでに東京を楽しんでみようとしたこともあった。
ネットの海に流れる大量の情報から興味のあるカフェを調べてみたり
訪れたい場所に目星をつけてみたり、少しでも東京の街を楽しもうとした。
しかし、いざ東京へ着くと、なんだかんだ時間がなく、空いた時間をつぶすために入るのはいつものスターバックス。

慣れない土地で唯一知る友達のような感覚でハシゴしたこともあった。

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そんな私が、初めて東京自体を楽しむために訪れたのは去年の3月。

まだコロナの影響を懸念し、訪れるのをためらったが、その頃ハマっていたショパン国際コンクールの出場者である牛田智治さんがショパンの演目でコンサートをするということもあり、思い切って東京へと出向いた。

2泊3日で2回コンサートに行く予定であったが、いずれも開演は夜。
昼間の間を東京の街で自由に過ごすというのは初めてだった。

昼頃に東京へと着いた私は、赤坂のホテルに荷物を置き、表参道へと向かった。
テレビで見たことのある並木道を見た瞬間、少しだけ高揚したのも束の間行ってみたかったカフェ掲げられた臨時休業の看板を見た瞬間、まだ三月だったにも関わらず一気に冷や汗をかいたのを覚えている。

知らない街で目的を無くした私はどうしようもなくうろうろし、側から見れば田舎者丸出しだったと思う。

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春休みの15時、人が溢れた表参道はどこのカフェも行列で、やっと辿り着いたカフェで、注文したカフェラテをほぼ一気飲みした。

幸い持ち歩いていたMacbookを開き、今のざわついた気持ちを落ち着かせるようにエッセイを書いた気がする。

一枚だけ撮った写真があったが、それすらもいつ撮ったか覚えていない。
私は意気揚々と訪れた表参道でひどく疲弊し、足早にホテルへと帰った。

コンサート自体は自然と涙が溢れるほどに素晴らしく、昼間も悲しみなど思い出せないほどに満足した気持ちで眠ることができた。

そして次の日、昨日の悲しみがすっかり浄化された私は六本木のカフェに挑戦し見事お洒落カフェを楽しんだのち、その日のコンサート会場の最寄り駅を勘違いし開演直前に到着するという、非常にスリリングな1日を過ごした。

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おそらく東京に限った話ではないのだが、本来目的がないまま知らない土地で時間を過ごすということはものすごくストレスなのかもしれない。

人によってはあてもなく街を散策し、一期一会の出会いにお金を払うのかもしれない。
偶然入ったカフェも、そう思えば一期一会の出会いだったのかもしれない。
しかし、私に限っては目当てのカフェに行くこと自体が目的だったがゆえにその目的が完遂されないと分かった瞬間どうしようもなくなったのだった。

加えて、元々物欲がない私は、仮にあの場で入れるカフェが見つからなかったら、本当に街をうろつくだけになっただろう。

そうなっていれば私にとっての東京はますます遠ざけたい場所になっていただろう。

住んでいる街であれば、疲れたら居心地のいい家に帰ればいい。しかし知らない街には逃げ場がない。 私にとってはそれがものすごく苦手なのだ。

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東京には何でもあるはずなのに、自分が欲しないから何かが手に入ることもない。
だから私にとって東京は空っぽなのだ。

おそらくこれからも東京を訪れる機会はあるだろうが、果たしてこの苦手意識が克服される日が来るのか、自分自身にも全く分からない。