わたしは、感情の起伏が激しい。
もう、それは簡単に腹が立つ。
そしてそれを言葉にせずにはいられない。
大人になってこそ、ぐっと堪えるということを覚えたものだが、いまだに思わず口が滑ることも多い。それに留まらず、余計な一言もついてくる。
いちいち棘を刺したくなってしまう。
言わないでいいものを、言わないではいられないのである。
◎ ◎
ふらっと入ったお店で店員さんに声をかけられた日なんかには、その場で顔が強張るし、声のトーンは下がるし、「もういいです」なんて言ってしまいかねない。
決して少なくない量の毒や棘を吐いているもんだから、人間関係が拗れたことも少なくない。
ただ、口から全て垂れ流してしまうのは、マイナスだけではない、というのがせめてもの救いだろうか。
プラスのことだって思ったことは包み隠さず言葉にしないと気が済まないのである。
だとしても、全くもって賢くない。
言った方が良いことだけ、さりげなく言葉として残しておく方が、賢いし優しいなと思う。
つまりわたしは全然賢くない上に、優しくもないのである。
◎ ◎
一方でわたしの恋人は相当賢い。
道中でおじいさんに突然話しかけられても、店員さんが寄ってきても、キャッチにつかまっても、嫌な顔一つしない。
ニコニコ当たり障りのない言葉をさらさらと吐いて、その場を上手くやり過ごす。
怒ってもその場でぎゃあぎゃあ喚いたりしない。
余計な一言など一度たりとも言っているところを見たことがない。
何か言ったとしても、その言葉には棘がない。
彼の選ぶ言葉はいつだって穏やかで優しい。
印象的だったのは、狭い歩道の真ん中でおばさま方がたむろして立ち話をしていた時のことである。
わたしは『邪魔だなあ。せめて端に寄ればいいのに』と思ってそこを通り過ぎた。
その場で「邪魔すぎるんだけど」と言わなかっただけ本当に偉い、と自画自賛したほどである。
◎ ◎
彼女たちから少し離れて、我々の話し声も聞こえないであろうところまで来て、同時に言葉を放った。
「邪魔だね」
「狭いね」
あぁ、なんて優しい言葉を選ぶんだろう。
道の真ん中でたむろする人々が、邪魔でないわけがないのである。
100人いたら50人くらいは『邪魔だ』という感想を持ってもおかしくないだろう。
いや、そうであって欲しい。
明らかに歩行する人の妨げになっているのだ。
「邪魔」という言葉の使用方法としては間違っていないはずである。
それなのに彼は「狭いね」と言った。
彼は、どこにも棘がない、穏やかで人を傷つけない言葉を選ぶことができるのである。
それが、数ある選択肢の中からあえて選び出したものなのか、何も考えずとも口を吐いて出たのか、わたしには分からない。
◎ ◎
どちらにせよ、彼はそうすることができる人なのである。
そういうところが。
誰かが傷つくかもしれない言葉を使わないところが、すごく好きなのだ。
そんな彼といると、自分の意地の悪さが余計に際立って、惨めな気持ちにもなるけれど。
彼といると少しだけ優しくなれる気がするのだ。
「邪魔だね」と思ってつい言葉にしてしまうけれど。
その言葉をせめて当人にはぶつけないでおこう、とそうすることができるようになるのだ。
彼の隣は居心地が良い。
優しくて愛がある。
毒されたわたしの心が浄化される場所。