子どもから大人になることはつまり、変わりゆくことでもある。
年齢を重ね、身体は大きくなり、物の考え方にも深みが増していく。

でもその一方で、何歳になっても変わらないことだってある。
私にとってのそれは、「お風呂に入ること=面倒くさいこと」。
とはいえ、こんな風に大仰に言うほどのことでもないのかもしれない。一定数の人が感じる、「お風呂あるある」のうちの1つに含まれるような気もする。

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実際、実家にいた頃は、日が暮れていくと「お風呂(の順番)、どうする?」と心底面倒くさいトーンで妹に聞き、「あー…先入っていいよ」とこれまた心底面倒くさそうなトーンで妹は答えていた。

大人になった今も、口には出さずとも確実に「ダルい」と思いながら着替えとタオルを持って脱衣所に向かうし、見たところ夫も同様だ。連日残業続きで帰りの遅い夫は「面倒くせえ」とはっきり口にしながら服を脱ぎ捨てていく。共感はするものの、ズボンのポケットにあれやこれやを入れっぱなしにしたままの抜け殻を時折産み落としていくのだけは、やめてほしいなと思う。そのまま洗濯してしまったことが過去に何度かあって、痛い目を見た。

話が逸れたが、お風呂に入るのは昔から変わることなく億劫な行為だ。ただ、確かに面倒くさくはあるけれど、「嫌い」という感情は湧かない。
なぜなら、お風呂場でシャワーを浴びると、ふいにヒントが降ってきたりひらめきがパッと瞬いたりすることが多いからだ。

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このことに気づいたのは、いつ頃だろう。5年くらい前だったか、それよりもっと前だったか。
私は昔から、浴槽にお湯は張らずにシャワー浴で済ませることが常だった。毎日湯船に浸かっている人ももちろん中にはいるだろうが、もはや尊敬の念が止まらない。

毎日しっかり湯船に身を沈めるということはつまり、毎日しっかり浴槽の掃除をするということだ。物ぐさの私には到底できっこないだろう。シャワー浴ですら面倒だの億劫だのと日々ぼやいている有り様だ。

それでも、手っ取り早く済ませるためのシャワー浴だとしても、不思議な効果がある。
「シャワーを浴びてるときって、妙にアイデアが思い浮かぶ気がする」と、ある日私はふと気づいた。気づいた瞬間、胸の中がざわつき、同時にときめいた。
頭上で灯る照明の光は、浴室に充満している湯気のせいで輪郭がぼやけていたけれど、明度はぐっと上がったような気がした。シャワーヘッドからあふれ出す熱い湯も、頭からつま先へと滑り落ちていくその感覚が段違いになめらかに感じた。

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誰かに言いたいけれど、同時に誰にも言いたくなかった。その気づきに初めて出会った瞬間は、まるで世紀の大発見をしたかのような感動に襲われたものだった。

ただ、それからあまり時を置かず、私の気づきは大発見でも何でもなかったことを知る。「シャワー アイデア」と試しにインターネットの検索窓に放り込んでみたら、同じように感じている人が大勢いることを示す結果がずらりと並び、学術的な研究も進んでいる旨がそこには書かれていた。

お風呂場で私が感じたざわつきやときめきは、どうやら全く特別なことではなかった。少しだけ恥ずかしくなったけれど、鼻を高くして誰かに話したわけではないからまあセーフだろう。何食わぬ顔をしてそんなことを考えながら、検索結果に表示された記事を読んでみた。

シャワーを浴びている時に限らず、例えば犬の散歩をしている時、掃除をしている時…過度な集中力を必要としない作業をしている最中は、創造力が刺激されやすいらしい。特定の物事に対して真剣に考えを巡らせるのではなく、はたまたただボーッとするのでもなく、適度な負荷が身体にかかっている状態というのが肝のようだった。

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つい最近も、シャワーを浴びている最中に舞い降りてきたアイデアがあった。
それは私が「いつの日か創ってみたいな」と夢見ているものに与える名前だった。夢の中身はまだふわふわとしていて具体性が乏しいのに、先に名前だけが突然降ってきた。

それでも、その言葉の響きには一瞬で魅了されてしまった。私の中にいる全審査員が、満場一致で賛成の札を上げていた。自分に自信がないのがデフォルトの状態であるにもかかわらず、その時に限っては「私は天才なのかな?」なんて高々と思ってしまうほどだった。

その夢は、今いる場所よりも遥か高い位置にある。現状だとまだまだ手が届かないけれど、でもその夢を本当に形にする時が来たら、絶対にあの名前をつけようと決めてはいる。お風呂場でふいに目の前に現れた、あの名前。

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くどいようだが、お風呂に入るのは確かに面倒だ。それでも、お風呂場でシャワーを浴びるからこそ、新たに見えてくるものもある。それは何の前触れもなく、気まぐれに訪れる。だからこそ私はあの瞬間がたまらなく好きで、だからこそどんなに面倒でも、お風呂が嫌いになることはないのだと思う。
さて、そうこうしているうちにお風呂に入る時間がやってきた。
今日も相変わらず億劫ではあるけれど、ふいに舞い降りてくるとっておきのプレゼントを期待して、一旦パソコンの画面を閉じることにする。