ありのままの私を愛して、と誰もが言う。私も例に漏れず、そう思う。しかし、「ありのままの自分」を正しく定義できる人が、この社会にどれだけいるだろう。「天然」と「人工」の境目は、いったいどこにあるのだろう。 湯船にたゆたうすね毛を見ながら、私はぼんやり考えた。

◎          ◎

「こんなこと言うのってあんまり良くないと思うんだけど」賢明な前置きをして、夫は私にお願いする。「脚の毛、剃ってくれない?」うっせ。ほっとけし。とはもちろん言わず、神妙な顔をして「今晩お風呂入った時に剃るね」と答える私。

父も母も体毛は薄い方だったのに、なぜか私は子供の頃から毛が濃かった。放っておいたら私のすね毛は2cmくらいまで伸びる。長さは大したことないかもしれないが、毛質がなかなか手強くて、黒く硬く太い、まっすぐな剛毛である。

まあ、見栄えは良くないかなあ、と思う。「脚のファンデーション」をうたうストッキングを履いても隠れてくれないし、なんなら黒いタイツを履いていても、繊維を突き破って表に出てくるくらいたくましい。アスファルトから芽を出し咲く花のようだ(?)。

仕事で重要なアポがある時は、夫からの督促が入らなくても、前日に両脚の毛を綺麗にする。「毛の処理」がもはや「美容」ではなく、他人に不快感を与えないための「マナー」になりつつあると、一応わきまえているから。

◎          ◎

お風呂で毛を剃るのは面倒だ。「5分で終わるでしょ?」と夫からは言われるが、たぶん10分くらいかかる。それに、真の問題は時間ではない。気持ちのコストの問題なのだ。根本的に、「あんた方のために毛を剃る筋合いはないと思うんだけど?」という反抗心が、心の奥底にある。

子供の頃は今よりもっと体毛が目立ったが、それで過剰にからかわれたり、バカにされたりした記憶は、幸いなことに無い。だからだろうか、私は「毛の生えた自分」がそんなに嫌いではない。

ひょっとすると、「毛の生えた状態の自分」をこそ、愛しているのかもしれない。だって、生まれた時からこの毛と共に成長してきているのだ。毛の生えた状態が、私のありのままだ。それをなんで、人から「変えろ」と言われないといけないのだろう。「ありのままでは、あなたはダメです」というジャッジを、どうしてされないといけないのだろう。

◎          ◎

他人を不快にさせないためのマナーということなら、仕方ない。とは言えこの風潮がこの先も強まっていったら、ずいぶん辛い世の中になりそうだ。

「見た目不快だから毛剃りなよ/脱毛しなよ」

「歯汚くて不快だからホワイトニングしなよ」

「顔ブスで不快だからもっと化粧頑張りなよ」

「化粧じゃどうにもならないくらい不快な顔してるから整形しなよ」
「お前のありのままの姿、不快だよ」
…これら全部、同じ延長線上にある言葉のような気がしている。

毛の処理まではまだいいとして、私が今「美容」と思っている事柄が、「マナー」の領域にこれ以上侵食してきたら、耐えられそうにない。

◎          ◎

私のルーティーンでは、すね毛を剃るのはお風呂の一番最後。洗髪、身体を洗って洗顔、その泡で顎ひげを剃り、湯船に浸かって、出てからすね毛に取り掛かる。

 …そう、顎ひげ。私の身体で毛が生える場所は脚だけではない。顎にも立派な毛が生える。最長どこまで伸びるのか、これは測ったことがない。なぜならすね毛と違い、伸びた状態に耐えられなくて、だいたい24時間で剃ってしまうから。毛生えはさすがに男性よりは遅いにしろ、24時間もあればマイルドな紙やすりくらいの触り心地にはなる。

同じ体毛なのに、一体どうしてこんなに抱く感情が違うのか?自分でもわからない。顎ひげが生えているのを見られるのは、決定的に恥ずかしい。誰に言われるでもなく、毎日欠かさず処理している。これを処理するのは紛れもなく自分のためだという実感がある。

私は顎ひげの生えた自分を愛していない。顎ひげの生えた自分の姿を、正しい姿として認めてもいない。

◎          ◎

そう考えると、段々わからなくなってくる。私が「ありのままの自分」と思っている姿は、どうやって決まっているのだろう?顎ひげとすね毛、ナチュラルさにおいて本質的に違いはないはずだ。それなのに、愛着の度合いにはこんなにも差がある。実は私が愛しているのは「ありのままの自分」などではなく、もっと別のものを根拠にしているのではないか。「ありのままの自分」なんて、幻想なんじゃないだろうか。

私が愛する私の姿は、いったい何者なんだろう?

長風呂をすると、こんな風に考えがどんどん膨らんでいく。しかし不思議なもので、湯舟から上がるとき体からお湯が滑り落ちるのと一緒に、アイデアもさっぱり抜け落ちていくようだ。なんだかんだ脚の毛を剃ったら夫には感謝されるし、肌トラブルも減るし、悪いことばかりではない。ただなんとなく、なんだかなー、自由意思じゃないんだよなー、と釈然としない気持ちのまま、自然の毛流れに逆らってシェーバーを動かした。