"居心地がいい"を私の中で定義づけるとするなら、安心感の有無だ。

極論、そこで寝れるかどうか。会社に行くのがストレスなのは、そこが自分にとって居心地がいい場所ではないからであり、人はそんなところで寝ようとは思わない。この定義づけなら、危険と隣り合わせなジャングルとストレスフルな会社はほぼ同じである。

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家ではないな、と思った。居心地はいいが、一番ではない。

私は常に最悪な状況を考えている。例えば今、地震が起こったら。火災が起こったら。

家においての最高責任者は自分である。今もし災害が起こったら、安全の確保と同時に、生き残った後の対応と処理を考えて行動しなければならない。家はお城、故に当主は常に律しておかなければならない。

大袈裟だが、そういうことを考えると、一人暮らしの我が家は少しソワソワしてしまう。

お気に入りの場所であり、個人的マイアナザースカイのみなとみらいも違う。そもそも他人がいる時点で論外だ。 

そうして考えてみると、私は車の中が一番居心地のいい場所かもしれない。
別に自家用車には拘らない。レンタカーでもいい。完全個室で災害の被害も恐らく受けづらい。 外側から見えないようなマジックミラーだともっといい。

支障があるとすれば免許を持っていないことだ。

だから私の居心地のよさを追求するなら、誰かに車を出してもらって、私は後部座席に乗る。公園やパーキングエリアのような適当なところに置いてもらって、運転手には降りてもらう。そのまま数時間放置してくれればいい。車内には私だけ。

最高。傲慢極まれりな話だが(実現することはきっと永遠に無い)。

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観覧車なんかも好きである。避難には不向きだが、天災のときの責任の重さは皆無。おまけに景色がいい。

小学校六年生のとき、修学旅行で行った鹿児島県の動物園に小さい観覧車があった。

友だちと観覧車に乗ろう!という話になったのだが、四人乗りに対して私たちは五人グループだった。三人と二人で乗ればいいのだが、すぐに解決しないのが女子小学生という生き物。互いに「○○ちゃんと一緒がいい」が交差し合って五角関係のような状態が続き、一向に話が進まない。

そのまま観覧車の前で十分ほど話し合ったときにめんどくささが極まった私は、一人で乗ることを宣言した。私と乗りたがっている子もいたので、もちろん文句は出る。だがこれは、時間を無駄にしていることに対する私の文句だ。

問答無用、頼むから四対一で乗ってくれと頼み込んで、私はゴンドラに一人で乗車した。

小さな観覧車に乗って、写真の整理をしつつ息をついた。動物園を一望できる観覧車はよかった。修学旅行はもちろん楽しいが、なんだかんだ疲れていたのだ。

一人で乗る観覧車は心の底から安らいで、目を閉じた。こんな空間に四人で乗っていたら息がつまりそうだと思った。一周はあっという間だった。

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私の"居心地のいい場所"を突き詰めていくと、かなり条件が厳しいことが分かる。観覧車の前で相談し合ってた彼女たちからすれば、私の方がよっぽどめんどくさい人間なのかもしれない。