人といるのは嫌いじゃない、けど一人でいる時間はもっと好き。
仕事の中で接する分については何も問題ないけれど、休日まで会いたいかと言われたら申し訳ないが首を横に振らざるを得ない。

そんな心配をしていた私を襲ったコロナ。
入社式もそこそこに約2ヶ月の自宅待機、出社して見た先輩たちの顔はマスクに覆われ、職場の人間と食事なんてもってのほか。
なかなか飲み会ができないと嘆く先輩たちに相槌を打ちながら心の中でガッツポーズをしたことは記憶に新しい。
そんな安息の時間が終わりを迎えつつある。
人々との交流が盛んになるにつれ生まれる人間関係での悩み。
コロナが明けた今、私は人間の過剰供給に戸惑っている。

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コロナで始まった私の社会人生活。
周囲に友人や親戚が住んでいる環境だったとはいえ、慣れない土地での一人暮らしに初めはそれなりの孤独や不安を抱えながら生きていた。
しかし、人との関わりが薄い生活が快適だと気づくのに時間はかからなかった。

人との関わりが薄い分、自分で行動しなければ何も生まれないという意味では、人によっては苦痛でしかないのだろうが、私にしてみたら好機の何物でもなかった。
空いた時間にやりたかった勉強、してみたかった部屋の模様替え、夜には人と関わらなくて済むランニングをやったこともあった。
今思い返すと、我ながらなかなか充実した日々を送っていたと感じる。
もちろん本当に会いたい人には、PCR検査をしてでも会いに行ったし、自分の時間を自分のためだけに使える最高のボーナスタイムだったと言える。

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コロナ拡大縮小の波がある中で、社会人としての付き合いが本当に稀に数回のみあったが
その時でさえげんなりした私としては、人との関わり、少し辛辣にいうなら私が価値を感じない人との関わりを、時間を割いて実施しなければならないと思うともう今からげんなりする。
なんならすでに何度も約束を反故にしてしまった。
初めから約束しなければいいのだが、半ば強制的にメンバーに入れられたものや実際に体調が悪くなったという意味で多めにみてほしい。
もしかすると、初めから人付き合いが当たり前の世界に放り込まれていたらここまで人間の過剰供給を感じることはなかったのかもしれない。
しかし、基盤として個人が好きだという私の感覚に合致したコロナありの世界はあまりにも居心地が良すぎて、必要以上にアレルギーが出ているのかもしれない。

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今後も増加していく人間の供給に諦めて郷に入れば郷に従えスタイルへと変えようか。
なんて思ったこともあったが、もう戻れないと悟るのも早かった。
もちろん職場で仕事をする時間は円滑に業務が運ぶようコミュニケーションは取る。
だが、それ以外は私のための時間だ。
これまで通り、私がやってみたいと思うことや興味がある学問の勉強へと時間を割いて
自分のための時間を維持していくつもりだ。
「睡蓮ちゃん、今日みんなでご飯行くんだけどどう?」
「あ、今日はピラティス行くんですよね〜」
「睡蓮ちゃん、今月の下旬みんなでバーベキューするんだけど」
「あ、月末に資格試験があるので勉強しなきゃいけないんです!すみません!」
こう答える人間を、それでもと誘う人間はそういまい。
いずれ使えなくなる、場合によっては信頼性を損ねる病欠や忌引きといった言葉はあえて使ってやらない。
私は、コロナ禍で味を占めた自分を大切にする時間を守るべく、自分で人間の供給を調整し、溺れないようコントロールするのだ。