職場での地味なストレスが許容範囲を超え、生理前であることも相まって苛立ちを超えて悲しくなってしまうと、鼻水が止まらなくなった。ストレスが抱えきれなくなると、いつも声が出なくなる。職場の先輩に不信がられてしまったけれど、それさえも煩わしく、鼻を啜りながら店頭に立つ。ようやくその異変に気がついたのか、上司に呼び出されて個別ミーティングが始まった。
翌朝は、酷い生理痛で仕事を休んだ。男性の上司には「生理痛が酷く、立ち上がれないので、休ませてほしい」と、馬鹿正直に送ってやった。返事が来ると安心して気絶するように眠り、目が覚めた時は昼過ぎだった。リビングからは、母が姪っ子とビデオ通話で楽しそうに話しているのが聞こえてきた。
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午後からは少し回復したので、ずっとできずにいたピアノの練習と、クローゼットの整理と衣替えをし始めた。惚れ惚れするほど素敵な私の特別なお洋服を一度全て引っ張り出して、ブランドごと、アイテムごとに分けて、夏物は奥に、直近で着られそうなものは手前に仕舞った。
ふと足元を見ると、あまり読まない本がまとめて入れられている箱が目に入った。ふと気になって中を見ると、懐かしい漫画が出てきた。森本梢子著の『高台家の人々』という漫画だった。
物語は、平野木絵という妄想好きな冴えないOLが、高台光正という青い眼をした男性と恋をする、ファンタジーラブコメで、気を抜いていると声を出して笑ってしまうほど、面白い。それぞれのエピソードにいちいち笑いながら、物語を進めていると、なぜか泣けてきてしまった。どうして私はこんなにも惨めなんだろう。私には、死ぬまで青い眼をした素敵な王子様は、現れないんだろうか。
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現状はどうだろう。職場のバカな同僚に苛立ち、なぜか先輩は私ではなく彼をフォローする。バランスを見て指示してる、と不機嫌な顔をして言われても、どんなバランスを見ているのか意味がわからない。
余裕がない若い先輩たちにも苛立つし、体力は取られていくし、休みはまばらで謎の連勤を強いられる。好きな人は既婚者だし、私のことなんか好きでもなんともない。「時間あったら連絡してきてよ。ランチ行こう」と言ってきたくせに、ランチの日にちは決まらないし、「また連絡するわ」と連絡を終わらせられてしまったから、またこちらから連絡しにくい状況にされてしまう。私のことなんて、好きでもなんでもないくせに、私が好いていることが気分がよくて、離れようとすると連絡してくる。非常に鬱陶しい。
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私はただ、好きな洋服に囲まれて、楽しく接客をして、好きなように勉強をして、好きな人に愛されて、幸せに元気に四季を感じながら毎日を過ごしたいだけなのだ。洋服に囲まれて、楽しく接客して、しかし疲れ果てて帰宅して、勉強をする時間がない。
だからせめて本だけでも読もうと、少しずつ本だけ読んでいる。ピアノは元気がある時の夜か朝、休みの日に練習している。好きな人は、私のことを好きじゃない。今の私は、疲れ果てていて、四季を楽しむ元気がない。
人生の中で、山があれば谷があるのは仕方のないことだとは理解している。自分が自ら選んで平坦な旅を選ばなかったのも確かなことで、しかし山が高ければ高いほど、谷は深いものになる。すでに底は通り過ぎていることに気がついているけれど、まだ温かな陽の光は届いてこない。
しかし一度、山頂を経験してしまうと、そこから見る景色が恋しくてたまらない。心地よい疲労感と、宇宙が近く感じられるような澄んだ空に、眼下に広がる地球の丸さを感じられる大地。またあの景色を見られる日は来るんだろうか。
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いつもなぜか生き急いで苦しんでいる私に、母はいつも言い聞かせる。「機が熟すのを待ちなさい」、と。
きっといつか、動き出す時はやってくるはずだ。それまで私はコツコツと、できることを重ねていくしかない。キャリアも、恋も、何もかも、いつかは何かが変わるはずだ。いつか陽の光が差し込んでくることを願って、私は上へと足を動かし、この長い上り坂に足跡を残してゆく。