認知症で視覚障碍者の祖母がマンション廊下を徘徊し始めたのが分かったのは、2022年の7月のことだった。

「助けてくださあい、目が見えないんですう」そう叫びながら玄関から出た祖母が、立ち往生しながら親切なご近所さんに何度か保護され1人暮らしの1室へ連れて帰られていたのが分かったのは、もう祖母がそれを数度繰り返したあとのこと。

「同じマンションに住んでいるんだから、泊まって面倒見てやりゃあいいじゃないか」親切なお隣さんは、少しうんざりした様子で呼び出された私に告げた。

なんだか胸にぐさりと来た。正論だ。

だけど。ああ、なんだろう。祖母を訪ねるたびに繰り返される「就職は決まったのかい」という言葉。「女の幸せは結婚だよ」という無邪気な台詞。おばあちゃん、夕飯は食べたんだよ。そんな日々の繰り返しに、自然と訪れる足は遠ざかっていた。

なんだかいたたまれなかった。別人になるのを見ているようで。

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お隣のおじさんは、「泊まって面倒を見てやればいい」といった。

事実、支援サービスや特別養護老人ホームへの入居が決まるまでの2カ月弱、私たち家族の、総出の24時間介護が始まった。朝、昼、夜。交代で誰かが必ずそばにいて、祖母が間違って外に出ないように扉のチェーンをかけた。

苦しかった。なぜ、こんなに苦しいのだろう。考えた。祖母だからだ。

元気な時を、私に「お小遣いはあるか」「お菓子があるよ」と優しくしてくれた祖母が、私に、他人行儀に「助けてください」「貴方は親切ですね」と言ったり、夜中に起きて壁をバンバン叩いて「助けて」「おうちにかえして」と泣いたり、「おとうちゃん、ここどこ、こわいよ」と言う目の前の老女に、なんと接していいのか分からなくなったからだ。

「泊まって面倒見てやればいい」
至極簡単に、そして批判めいて口にされたその言葉が私の中でこだまする。
そうですねおじさん、貴方は正しいです。だけど、苦しいのです。

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介護を経験したことのない人程簡単に介護に口を挟むし介護を甘くみているしやっている側はやつれてく。

施設に入る前、助けてとごめんなさいを繰り返す祖母の腕を黙ってひいてトイレに連れていった。腕に余計な力がこもっていないか、強く掴み過ぎていないか、それが気にかかって仕方がなかった。夜中の1時、3時、6時。仕事に行く日もそれは続いた。家族と交代とはいえ、疲労と苛立ちは募った。

何への苛立ちか、言語化することを避けた。見ないふりをした。

家族皆が疲れていた。ようやく祖母が特養に入ることが決まった時、それはもう亡くなるまで世話を施設に任せるという一種の別れを意味するのだけれど、私は至極安心と、その一方で「祖母を引き渡した」罪悪感を覚えた。

もう少しあの生活を続けていたら家族が崩れかねなかったというのに。どうしてだろうか。

いつか皆が直面する、介護という問題。そのときに気がつく。あのときの言葉は正しかったか、あるいは、疲れや不機嫌が相手に伝染していないか、手を引く腕が乱暴になっていないか、どうするのがよかったのか。時間は待ってはくれない。

私たちは、祖母の手を放した。その選択をした。

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罪悪感だってある。ああしてあげられればよかったとか、もう少し進行する前に気が付いてあげられればよかったとか、消えない後悔だってたくさんある。

それでも今は、その代わりに、何度繰り返し同じことを聞かれても笑顔で返せる気持ちの余裕がある。

それだけの距離をあけた。それは正解だった、と介護をする側の虐待や殺人のニュース、遠いあなたを見て今は思う。あれは私だったかもしれないと。あそこにいるのは、私だったんじゃないかと。私たちの、誰かではなかったのかと。

別れの日は静かにやってきた。

私と祖母の一種の別離のかたちは、そんな風についた。私は1人暮らしを始めた。時間が穏やかに過ぎていく。月に1度、祖母に会って、あのときを確認する。この選択は正しかったと言い聞かせるために。

祖母に昔のように優しくあるために。