綺麗だと思ったこと。
胸がぎゅっとなったこと。
言葉にできない、新しい感情を忘れないでいたい。
忘れたくないことのひとつは、我が祖父との最後の時間だ。
小学生の私にとって、恐ろしい存在だった寡黙で厳格な祖父
私は大学生で家を出るまで、両親と、父方の祖父母と共に住んでいた。
と言っても、祖父は私が高校2年生の時に他界してしまったので、全員が同じ家に集っていたのは正確にはその年まで。
祖父はとても寡黙な男で、男尊女卑の時代の男性像をそのまま生き写ししたような亭主関白さだった。
家にいようが全ての家事は祖母がやって当たり前。自分の脱いだ靴下ですら祖母が片付ける様子を黙って見送るような人だった。
孫である私のことはおそらく可愛がってくれていたのだろうが、如何せん寡黙なために会話もなく。たまに私が出かけ先でほしいと呟いたものを急に購入し、驚いた私が恐る恐るお礼を言うような間柄だった。
祖父は大変に厳しい人でもあった。教師を生業とした人だからか、礼節のない言動や振る舞いにはかなり厳しく雷を落とされた。寡黙な大男が何の前触れもなく落とす雷は小学生の私にはあまりに恐ろしく、祖父に対する私の印象の多くを占めたのは恐怖だった。
喉頭がんになり、寡黙な祖父は会話ができなくなっていた
そんな祖父が、喉頭がんになった。
原因は、よく知らない。
あまり私の見えないところで入院手続きが済まされ、祖父は急に私たちの家からいなくなった。
これまで人を亡くすかもしれないという経験のなかった私は、祖父が入院しても「まぁ、帰ってくるだろう」なんて気楽な気持ちでいたものだ。
あまり入院してからの期間についても記憶がない。
気がついたら祖父はホスピスに移されていた。それまでに私がお見舞いに行ったのは恐らく入院したばかりの時の一度きり。転院した頃には喉頭がんが悪化して鼻・口からの呼吸ができなくなり、喉に穴を開けてそこから呼吸をするようにされていた。
そのために、祖父は会話ができなくなっていた。
大丈夫、と半ば言い聞かせるようにお見舞いに行った私は、そんな祖父を見て当時かなりショックを受けたのだと思う。
恐怖の対象としてみていた大男は見る影もなく。そこには痩せ細り、喉から異質な管を通された老人の姿があったからだ。
なんだこれは、現実じゃない。
多分私はそんなことを思ったような気がする。
急激に祖父の死を身近に感じた。そんな状態だと知らなかった自分を責める気持ちもあった。本当は、ただその状態の祖父に会いたくなくて、知りたくなくて目を背けていただけかもしれない。
祖父の手を取り呼びかける。祖父の声が聞こえた気がした
そんな時、家族が皆お手洗いなどに立ち、私と祖父が二人きりになる時間があった。
たった一瞬だったように思うが、私は祖父と二人きりになりたくないと感じていた。二人きりになってその状況に相対する勇気がなかったのだ。
何を話していいかもわからない。でもその時私はなぜか、立ち上がって祖父のベッド脇まで歩いて行ったのである。
「おじいちゃん」
話せない祖父に向かって、何ともなく呼びかけた。
その瞬間、なぜかこれまで流したことのない涙が流れた。嗚咽するわけでもなく、ただ瞳から溢れただけというような。その涙に合わせて声が喉をついた。
「ご、ごめんね」
「もっと話せばよかったね」
今思えば後悔の涙だったのかもしれない。
祖父の少し冷たい、骨ばった手をさすりながら、焦点の合わない祖父に、おじいちゃん、と3度ほど話しかけた。涙を零しながら、なぜかそうしなければいけないと思い、私は下手くそに笑顔を作り続けていた。
その時、これは本当に私の記憶が都合の良いように補完されただけかもしれないが、「何だ」というぶっきらぼうな祖父の声が聞こえた気がした。祖父の手が微かに動いた。
窓から風が吹き入り、生温い穏やかな風が濡れた頬を撫ぜる。ここにいるのにそうでないような、不思議な時間が流れていた。
病室での一瞬は、祖父と何かの形で繋がった大切な瞬間
瞬間、ガラリと病室のドアが開き、ガヤガヤと家族が戻ってきた。
私と祖父との二人きりの時間はそれが最後となった。
祖父が逝ってから、実は祖父が発達支援学級の心優しい担任であったこと、地域の人を巻き込んで川沿いに河津桜を植えるような求心力のある人であったことなど、いろんな話を聞いた。
祖父と別れてからの方が彼を知っている私だが、あの病室での一瞬は、祖父と何かの形で繋がった大切な瞬間だったように思う。
当時の私が初めて、心同士で相手と触れたような、そんな時間。
言葉はなかったけれど、祖父は最後まで私を大切に思い、大切な時間をくれた。
いつも見守ってくれてありがとう。元気でやっています。