20歳の頃、私の体に異変が生じた。
常に頭が怠く、まるで頭に鉛が乗っているよう。まともに頭を働かすことができず、大学の授業が頭に入ってこないのはもちろん、大好きな日課の読書もできなくなった。朝型で毎朝すっきり目が覚めていたのが、どんなに早く寝ても母親に起こされるまで起き上がることができなくなった。

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ある日の通学途中。電車の中で立っていた私はいつのまにか意識を失っており、気が付いたら降車駅をとっくに通り過ぎていた。

さすがにおかしいと思い、母に連れられ病院に行った。私は肝臓に持病があり、定期的に通院をしている病院があった。主治医に症状を話すと、「大丈夫だと思うけれど」と言いつつも、血液検査をしてくれることになった。
「結果が出たら1週間以内に連絡しますね。」と言われ、その日は帰宅した。普段通り穏やかな様子の主治医を見て、私は「少し疲れているだけで、何でもないのかもしれない」と思っていた。

予想に反して、主治医からは翌日すぐに連絡があった。
電話に出た母は真剣な口調でこう言われたという。
「移植手術を受ける気持ちはありますか」
血液検査で肝機能が異常値を示し、私の肝臓の状態が急激に悪化していたことがわかったのだ。

すぐに大学病院を紹介され、慌ただしく手術の準備が始まった。ドナーには検査で適合した母がなってくれることになった。
心の準備がないまま受けることになった手術。恐怖感はあったが、命が助かるためには手術を受けるしかないことは分かっていた。

手術は20時間にも及んだが無事に成功し、母の肝臓は問題なく私に移植された。
まだ麻酔が効いている中、術後のICUで聞いた手術成功という言葉。私はほっと安心して再び眠りについた。

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が、本当に大変なのはこれからだった。
麻酔が切れた途端に襲う腹部のズキズキとした痛み。手術で臓器を触った影響だという腹部全体に感じる気持ちの悪さ。また、首、お腹、手足、尿道と体中に管が入れられ、トイレや着替えはもちろん、自分一人では起き上がることさえできなかった。

日常生活の全てに人の助けが入り、何をするにも病院スタッフの手を借りなくてはいけない自分。ショックや羞恥心で心が折れそうになったこともあったが、回復までの長い道のりを沢山の人が支えてくれた。

モルヒネの偏った印象から投与を拒否して痛みを我慢する私に対し「モルヒネは正しく使えば安全な薬。痛みを我慢するほうが余程体に悪いことだよ」と諭してくれた看護師さん。
朝の回診時だけでなく、夕方や休日にも必ず病室に顔を出し、体調を気遣ってくれた担当医の先生。
毎日のリハビリでは、少しずつでも着実に体力をつけられるよう、理学療法士の先生が明るく丁寧にサポートしてくれた。

ドナーとなってくれた母は、術後でまだ本調子でない頃から、一生懸命車いすを漕いで私の様子を見に来てくれた。
父は頻繁に仕事を抜けだしては私と母の病室をはしごして見舞い、介助をしてくれた。

おかげで私の体は順調に回復し、術後2週間になる頃には食事がとれるようになった。
術後初めての食事は水分ばかりの「おもゆ」だったが、久しぶりの食事は体に優しく染みわたり「おいしい」と心からの言葉が出た。美味しそうにおもゆをすする私の様子を見た母は本当に嬉しそうだった。

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入院は2か月に及んだが、それでも想定よりだいぶ早い退院だった。母の肝臓が私にぴったり適合し、順調に動いてくれたと担当医の先生はおっしゃっていた。

退院後もしばらく、生卵や生魚はもちろん、生野菜やファミリーパックの牛乳やヨーグルトなどの摂取も禁止など厳しい食事制限があり、毎日の体温測定や徹底した感染症対策が指示されたが、長い入院生活を終え、自宅で家族と過ごせる喜びは何物にも代えがたかった。

段々と食事制限は緩和され、退院から一年経ち、生魚が食べられるようになった頃、家族は私の大好きな回転寿司でお祝いしてくれた。

その後は同級生より遅れたが、無事に就職し、やがて結婚もした。
もしかしたら、手に入らなかったかもしれない幸せ。

毎日の慌ただしい生活。つい健康に過ごせることのありがたさを忘れてしまい、日常の些細なことで不満を言ってしまうこともある。

手術日となった7月10日は新たな命をもらった、私の第2の誕生日である。
毎年この日は、感謝を忘れ、小さなことで不満だらけになっている自分を戒め、沢山の人が自分を助けてくれたこと、健康でいられることのありがたさを改めて思い出す大切な日である。