ベートーヴェン・交響曲第6番「田園」。
大学のオーケストラに所属して初めて演奏したこの曲を、8年ぶりに生で聴く機会があった。
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冒頭、チェロとコントラバスの低音に導かれるように始まる、バイオリンの跳ねるような旋律。弦楽器が1小節ごとにクレッシェンドして、音量の頂点で合流する木管楽器。
気持ちよく聴いていると、突如緊張が走った。プロの演奏者が変な音を出したわけではないし、もちろん自分が演奏しているわけでもない。ただ曲が進むにつれて、なぜか胸がどきどきするのだ。
あと4小節。あと3小節。あと2小節。
自分の譜面はもう覚えていないけれど、次第に高まるその緊張で「ああ、この後自分の出番なんだな」と判断できる。自分の出番が近づく緊張感は、聴く側になっても染み付いているらしい。「田園」の生音に包まれて、たちまち現役で演奏していたあの頃に引き戻された。
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私は高校生の頃から、ファゴットという木管大型楽器を担当している。
高校では吹奏楽部で吹いていたが、吹奏楽でのファゴットの立ち位置は「オプション」。低音のリズム打ちはチューバやバリトンサックスにかき消され、たまにいいメロディをもらってもテナーサックスとユーフォニアムの音量に負けてしまう。まさに不遇の楽器だった。
その立ち位置が一変したのが、大学から始めたオーケストラだ。
オーケストラの管楽器は、1パート一人のみ。1つのパートを複数人数で受け持つ吹奏楽とは異なり、管楽器奏者一人あたりの責任がより重いのだ。
はじめてオーケストラの合奏で自分の音を出したとき、怖くてたまらなかった。
「え、自分の音がこんなにむき出しに聴こえる……」
吹奏楽では当たり前にかき消されていた自分の音が、オーケストラではまるで自分の音ばかり聴こえる。低音楽器として他の楽器と同じ場所を吹いていた私が、高音楽器のクラリネットの隣で同じメロディを吹いている。
すべての常識がひっくり返った。しかしそれがとても面白く、プレッシャーも責任もやる気に変わっていた。卒業までの4年間在籍して、他の楽器の後輩指導や、演奏会の運営担当も務めるほどのめり込んだ。
しかし、就職を機にオーケストラもファゴットもご無沙汰になってしまっていた。
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プロの演奏者による「田園」はとても素晴らしかった。オーケストラに打ち込んだ学生時代の記憶も鮮明に蘇って懐かしい。ただそれより私は、今にでもホールの座席から立ち上がりそうなほど、身体がうずうずしていた。
私も早く、「そっち側」に行きたい。
自分の出番が近づくにつれて高まるプレッシャー。むき出しに聴こえる自分の音。
あの頃の自分はよくステージであんなに堂々と演奏できていたものだ、と恐怖と恥ずかしさを覚える。まさに「無知は無敵」。自分がどれだけすごいことをしていたのか、当時は自覚していなかった。
あれだけの緊張を味わったけれど、それでも私はまたオーケストラをやりたい。
「そっち側」にいる人たちが羨ましかった。
自分の音が必要とされて、みんなの音と一つの音楽をつくる、そんなオーケストラにまた入りたい。
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ホールから出て私はすぐ、スマホで「〇〇市 オーケストラ」と検索した。
それから2ヶ月、私は地元のオーケストラに所属して楽器を続けている。11月には大きい演奏会が控えていた。曲目のひとつは、またしてもベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。
この曲の3楽章で、私の担当するファゴットとオーボエ、フルートの3人のみが同じ旋律を吹く場面があった。誰か一人がズレたり間違えたりするとすぐバレる、とても重要な場所。何度も3人で練習を重ね、本番を迎えた。
演奏会を終えて隣に座るクラリネット奏者が、「3人の旋律が終わった後の安堵感が伝わったよ」と笑っていた。無事に乗り越えて、相当ホッとしていたらしい。
いくら練習しても緊張は抜けない。けれど今回の緊張は一人だけのものではなかった。
緊張を分かち合い、やる気に変え、楽しむ。私は再びオーケストラに没頭する気がしてならない。