昨日出来ていたことが今日できない。

それは突然だった。

祖母の体調は急変し、部屋に篭りがちになった。 86歳になる祖母は、1週間寝続ける生活をしただけで、筋力がなくなり歩けなくなった。弱っていく姿は、こんなにも顕著なのかと思うほど、落ちるスピードは速く、次第に食欲も消えた。

健康だった祖母は1ヶ月でご飯を食べることも、歩くことも、起き上がることさえ自分1人では出来なくなった。

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物心ついた頃から、祖母の事が嫌いだった。

祖母が寝たきりになった事で、皮肉にも「孫とおばあちゃん」として再び素直に向き合えた気がする。

「あれも嫌だ。これも嫌だ」とケチをつけ、口だけは達者でテレビや世間に対して悪口しか言わない。わがままな祖母とは極力会話を避けるようになっていた。まともに話せば自分がイラつく事をよく理解していたからだ。

ひとつ屋根の下、ずっと一緒にいるくせに、一日に交わす言葉は二言三言のみ。面倒くさい時は、聞こえないフリさえしていた自分がいた。

「祖母はきっとこれからも元気でいるだろう」という根拠のない自信からくる、家族への甘えや慣れの結果だったかもしれない。

祖母が体調を崩し、寝たきりの介護が始まってからは「もっと会話したり、交流しておけばよかった。」と思う一方で、当時の自分を振り返っても、祖母への嫌悪感を隠しながら、大人の振る舞いが出来たとも思えず、歯切れの悪い罪悪感みたいなものを抱いていた。

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祖母のお世話は、母が仕事の傍ら全て行い、そのサポートを私や父がする。
介護される側は、寝たきりになってしまえば、ただ「何もしない事」しか出来ない。

自力で生活出来ないことへ、虚無感を抱えながら人生の終わりを静かに待つ。
その祖母の姿を見る事は、胸が痛い。

逆に介護する側は、目の前の介護生活が日常の中心となり、大変さのあまり自分の時間がない事にさえ気づけない。介護は子育てと違い、終わりが見えないからこそ、される側もする側も、残酷な現実を受け入れるしかないのかもしれない。 

だからこそ、家族全員のサポートが光となる。
たわいもない会話が尊く感じられる。大変な事も多いけれど、家族団欒の大切さに気付かされる理由は、介護の時間があるからかもしれない。

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祖母が嫌いだったこんな私だけど、介護の現実に直面した事で、おばあちゃんと孫としてのコミュニケーションが増えた。

おばあちゃんの言動に対して、その瞬間はイライラしていたけど、ネガティブなその感情すら受け入れてみる。

「あ、私またイライラしてるな」くらいの気持ちでやり過ごす事で、自分を見つめられる。

家族にうざったさや嫌悪感を抱く事は、誰しもきっと経験があるからこそ、自分の気持ちをあえて客観視する事で、相手に対する寛容さに繋がると思う。

自分のイラつく気持ちを否定しようと試みたり、おばあちゃんの性格に対して思う事があったからこそ、向き合い方が難しくなっていただけなのかもしれない。

そう思えたらスッと楽になり、おばあちゃんに対する今までの罪悪感も肯定できた。

関係がうまくいかない時は、グッと自分を我慢する必要はないし、自分の行動に素直になっても私はいいと思う。

ただし、客観的に自分の気持ちを見つめる事を忘れないで。家族に対して、思いやりの余白が残るはずだから。