私は写真を撮るのがうまい。被写体は、食べ物が最も多く、次に空や自然、建物、路地、動物、それから、私が私を可愛いと思って撮った自撮りも多い。どれをとっても、カメラロールを見返しては惚れ惚れするうまさ、可愛さ。

気に入った写真はよくSNSに載せるが、そのSNSの投稿もまた見返す。1日に1回は絶対に過去の写真を見返す時間がある。私は結構写真が好きだと思う。

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私の写真人生の始まりは小学生の頃、任天堂DSシリーズにカメラが搭載され始めて、それを買ってもらった時。植物とか食べ物とか花火とか、なんでも撮っていた記憶がある。

今時の小学生はみんなスマホ(かそれ相当のカメラのついた何か)を持っていて、当然それで写真を撮るのだろう。あの頃のDSで撮った、画質ガビガビの、ほとんど黒一面の花火の写真を彼らに見せてあげたい。「一周回ってエモい」とか言うかもしれない。

こういう話題の時は必ず、私たちの幼少期にスマホがなくてよかったよね、という話になる。

もし私が小学生の時に、今のような高性能で楽しいスマホが登場していたとしたら、私は間違いなく、それで撮ったユニークな自撮りやらダンス動画やらをインターネットの海に垂れ流し、デジタルタトゥーの数々を身体中に刻み尽くしていたと思う。自分が世界一と信じ込んでいる時期に、世界との繋がりがDSしかなくて本当に助かった。

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中学生になるとiPod touchを手に入れ、写真を撮ることや、撮ったものをメールやLINEで送るということが気軽にできるようになった。とはいえ、学校は携帯の持ち込みが禁止だったので、ほとんど外か家でしか使っていない。あとは、部活の時、顧問がいない間にふざけて友達の写真を撮る程度。

あれからちょうど10年くらい経つが、当時のLINEグループは未だに残っているし、なぜか定期的にその頃の写真が発掘される。つい最近も「これ10年前のあんたの勉強机だよ」とか言って、当時好きだったバンドのポスターで埋め尽くされた私のイタ勉強机の写真が送られてきた。

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高校生になってからはいよいよスマホを持ち始める。最初は確かiPhone6s、まだ丸いホームボタンがあった。そして当時は自撮りアプリSNOWが大流行した時期だった。

SNOWは、カメラに映った人の顔を自動で認識してフィルターをつけてくれる、いわゆる盛れるカメラアプリだ。私たちは夢中で、本当に暇さえあれば毎日SNOWを使って自撮りしていた。数えてはいないが、高校3年間で撮った自撮り写真たちはとんでもない枚数になっているはずだ。

同時に、この頃は私の顔面コンプレックスが爆発した時期でもある。私の友達は可愛い子ばかりで、私だけが可愛くないと思っていた。私はSNOWなどを使い、友達の写真をたくさん撮っていたが、友達は私のことを全く撮ってくれなかった。

それは、私が可愛くないから仕方ないと割り切っ(たふりをし)て、「私のことはいいですから、可愛いみんなの写真を撮るのが好きなんですよ〜はいチーズ」みたいに、撮る役に徹していた。カメラロールや共有アルバムを見ると、自分の写真だけが圧倒的に少ないのはどうしても悲しかった。

今思えば自分が可愛いかどうかなんてどうでも良いのだが、高校生の私は非常にセンシティブだった。私の写真もいっぱい撮って欲しい、とは口が裂けても言えなかった。

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高校を卒業する頃、SNOWの流行も落ち着いて、今度はプリクラにハマった。プリクラに撮影者は要らないので、自分の写真が必然的に手に入る。しかも目は大きく、鼻と口は小さく、肌は白く綺麗に加工されている。確実に自分の、しかも可愛い写真を入手できるプリクラは革命的だった。しかし現実の私は微塵も可愛くなかった。

たぶんその頃からだ。自分で「私は可愛い」と言い聞かせるようになった。声に出すと実現するという言霊に似たやり方で、自分の写真、主にプリクラを見ながら「私は可愛い」と頭の中で繰り返した。誰も可愛いと言ってくれないならせめて、自分で自分を可愛いと思えるようになりたかった。

私はたまに、自分の容姿を好きになるまで5年かかったという話をする。今でこそ、一緒にいる友達に写真を撮ってもらったり、自撮りをしたり、それらをSNSに載せたりなどしているが、これは、私が私を好きになるためにした努力の結果である。

これによって、私が単に自己顕示欲の塊だと思われるなら、それでも大いに構わない。しかし、承認欲求の裏に隠れた10代の切実なコンプレックスを、この世の誰かには知っていて欲しいというのもまた切実。写真とは、私の軌跡であり自己愛である。