お気に入りのカフェの小洒落たランチ。
「今日はきれいに作れた」と嬉しくなった休日のオムライス。
枝先でいち早く咲いているのを見つけた、1輪の桜の花。
雲がひとつもなくて、ぽかんとどこまでも青かったいつかの空。
近所の川をゆたゆた泳ぐカルガモの群れ。

脳で考えるより先に、スマートフォンのカメラを自然とそこにかざす。
写真として切り取られた風景たちが、フォルダの中をあっという間に埋めてゆく。

誰しも当たり前のようにスマートフォンを持っている今、写真を撮ることも昔と比べたらかなり身近な行為になったのではないだろうか。「あっ」と少しでも心動かされたものを見たときは、必然的にそれを形に残そうとする。

◎          ◎

切り取った風景を写真に残すのは、大なり小なり愛おしさが感じられる行為だと思う。

人は、忘れる生き物だ。時間が経てば経つほど、頭の中の記憶は曖昧になってゆく。
でも、そんな抗いようのない忘却を、写真は上書きすることができる。過ぎ去っていった時間たちは、確かにそこにあった現実なのだと伝え続けてくれる。

幼い頃の写真だと、記憶が曖昧どころか限りなくゼロに近いものもたくさんあるけれど、切り取られた風景の中には生きた時間が刻々と流れている。当時の写真は、アルバム数冊分にも及ぶ。幼い私の軌跡を写真にたっぷり残してくれた両親には、素直に感謝したい。

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でも、写真を撮ることが身近になったからこそ抱くようになった戒めもある。

先日、2泊3日で静岡に行く機会があった。

静岡と聞いて大抵の人が思い浮かべるのは、やはり日本一の山・富士山なのではないだろうか。私が富士山を間近で見るのは、およそ17年ぶりのことだった。久しぶりに目の当たりにした富士山の迫力に、私はずっと圧倒されてしまった。

普段は遠く離れた東京に住んでいるため、富士山を近くで拝める機会はそうそうない。だからこそ、考える間もなく眼前にそびえる富士山にスマートフォンのカメラをかざした。

天気も良かったため、雲ひとつない青空を背にしてどんと構える富士山を写真に収めることができた。けれど同時に、私は心の中で「む」とひとり小さく唸ってもいた。

写真の中の富士山は、この目で実際に見た富士山よりもどうも迫力に欠けた。もっともっと勢いがあるはずなのに、何だか萎縮しているように見えた。

望遠レンズ付きのカメラならばまた話は違うけれど、遠くの風景を撮ると、写真に写ったそれはより遠のいた形で枠の中に収まる。少しだけ、感動が半減したような気持ちに襲われた。

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私は途中で写真を撮ることをやめ、ぼんやりと目の前の富士山を眺め続けた。

日本一の迫力を、28歳の秋に目に焼きつけたこともいつかは忘れてしまうのかもしれない。たまに写真を見返して「あのとき富士山見たなあ、大きかったなあ」と思い出すことはあるだろうけれど、本物の風景とその写真の間には若干の乖離がある。

写真は確かに便利だ。記憶の補填にもなる。でも、完璧じゃない。

写真を撮ることばかりに夢中になって、肌に直接触れた感動を疎かにすることはしたくない。

忘れる生き物が備え持っている記憶の力も完璧ではないけれど、見て、聞いて、感じて、味わって、嗅ぐことができる私たちは、その五感をもっと慈しむべきだと思う。
そんなことを、最近私はよく考えている。