毎日の日課である母との夜の散歩中、電話が鳴った。「はい。今からですか?」。母は深刻そうに返事をし、手を目元にあててうつむいた。「ばあちゃん、呼吸が止まんじょるって」。電話は祖母が入所している施設からだった。

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私が最後に祖母を見たのは、この電話の3日前だった。最近、施設からよく電話が入るようになっていた。祖母がご飯を食べられなくなって5日が経ったとの連絡が来た。母と私は、祖母の好きなケーキとプリンを買って届けた。祖母はパーキンソン病を患っていた。筋肉が硬直してしまう難病である。ある日、自宅の庭で倒れているところを近所の人が見つけたことがあった。外に出て身体が硬直してしまい、動けなくなったのだ。トイレにも行けず、その場でしていた。幸いにも冬ではなかったので良かったが、一人での生活は難しいだろうと、施設暮らしが始まった。近頃は歩くこともままならず、車いすにも上半身を固定しないと座れないまでになっていた。

祖母は点滴をつけたまま、車いすに固定されたままやってきた。本来であれば面会の予約をしなければ会うこともできず、面会は部屋ではなく1階のホールでのみ可能であった。大きなマスクをつけた祖母は苦しそうに大きく肩で息をしていた。私たちの問いかけにも時折うなずくだけで、沈黙があるとぼーっと横を向いてしまう。何か言いたそうではあるが、もはや聞き取ることはできなかった。喉の筋肉が弱くなって、もう飲み込む力がほとんどないのだと母は言っていた。私は祖母を目の前にして、「ああ、もうばあちゃんは死ぬんだ」と直感で悟った。帰り際、「ばあちゃん、またね」と言って手を握ったが、もう生きて会うことはないのだろうと思ってしまった。涙があふれそうになった。

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散歩から戻り、すでに寝ていた父を起こして車に乗り込んだ。夜に出かけるのは、子供の頃を思い出してうきうきした。田舎暮らしで、夜に車でどこかへ行くことはそうそうない生活だった。施設に着くと、ベッドの上で口をあんぐり開けて薄目を開けた祖母が寝ていた。今にもいびきが聞こえてきそうだった。私だったらこんな姿を人に見られたくはない。点滴はすでに外されていて、医師から死亡を確認したことと、死因についての説明があった。80歳を超えていたため、老衰と診断された。父と伯母は明日面会の予約を入れていた。動かない祖母を囲んで、これからの話し合いが行われた。「自分が死んだときは、すぐに目と口を閉じてもらおう」。私はなぜかそんなことを考えていた。

翌日、葬儀場へ行くと既に祖母は化粧をして着替えていた。目も口も閉じていた。生前、祖母のことをお世辞でもきれいと思ったことはなかったが、その時の祖母はとてもきれいだった。直感でそう感じた。死体をきれいだと思ったことは人生で初めてだった。不思議な感覚で、何度も祖母の顔を見に行った。遺影には、私が撮った写真が使われていた。表情筋が固まっていつも怒ったようなムッとした表情だった祖母が、珍しく微笑んでいる写真だった。集まってくれたおばやおじたちは、スナップ写真を手に取り懐かしそうに見ていた。祖母の自宅の仏間にしまわれてあったものらしい。幼いころの私がたくさん写っていた。祖母にとって私が初めての孫だった。正直、祖母との良い思い出はあまり思い出せない。私が大学を卒業してからは、会うたびに「結婚しなさい」と言われるので話すことを避けていた。

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いつの間にか祖母は言葉が出なくなり、電話がかかってきても無言の時が何度かあった。葬儀場にかけつけた親族からも、祖母の話は悪い評判の方が多かった。祖母の実の妹のおばさんは、「こんな優しそうな顔見たことない」と言い、実の弟であるおじさんは「ずっと姉さんがこわかった」と言っていた。祖母の若いころの写真を見ると直感的にジャイ子を感じさせたが、話を聞くに祖母はジャイアンだったのかもしれないと思う。

「あんたのおばあさんな、高校行きたい言うてお母ちゃんと大喧嘩してたわ」。おばちゃんは呆れたように話してくれた。当時、女の子が高校に行くのは珍しかったが、祖母はCAになりたくて英語の勉強を頑張っていたらしい。私は幼稚園から英会話教室に通い、大学は国際学科でオーストラリアに留学もした。祖母は一度も外国に行ったことがなかったが、金銭的に援助してくれた。私の中に、祖母の血が流れているのを感じた。