「余命は1年ほどです。」
そう母の主治医に告げられたのは育児休業明けて職場復帰をしたばかり、28歳の初夏だった。
◎ ◎
父とは私が中学生頃に死別しており、看護師をしていた母が一人っ子の私を女手一つでここまで育ててくれた。
沢山の迷惑をかけてきた私は、母のことが大切で大好きだったし、もし何かあった時は1番に駆けつけて、私ができることならなんでもすると決めていた。
母には10年以上前から呼吸器の持病があり、病態が悪くなっていることも知っていた。
知っていたというか、正直にいうと見ないふりをしていた。
それでも、主治医の発言はあまりにも私には青天の霹靂で、余命宣告を聞いた時は涙が溢れるものだと思っていたが茫然としすぎて泣くこともできず、ただただコンピューター越しに映るレントゲン画像を見て"あぁ、この白さは末期ですよね"と冷静に頷いていたのを覚えている。
◎ ◎
そこから私の人生は一気に変わった。
ずっと働きたい、天職だと思っていた仕事を退職した。
一生懸命に保活をして、ここならきっと子が楽しんでくれるだろうと入園して、やっと子供が泣かずに登園できるようになった保育園を退園した。
夫婦で退職するなんてことはできず、旦那は単身赴任になった。
全部たった3ヶ月で起こったこと。
その後の生活は地獄だった。1歳半の子の世話を全て1人でしながら、母の世話。母の予定を最優先にする生活。
"親孝行をさせてもらっている"必死に思い込んで、心を押さえ込んでも、人生を全て狂わされたと思ってしまう自分が情けない。
◎ ◎
保健師は言った「お母さんが辛かったら介護を理由に保育園に預けることもできるから」
1歳児クラスはどこも軒並み満員で、途中入園なんて至難の業だ。
そもそも呼吸器疾患持ちの母と共同生活している子が集団感染がある保育園に預けることのリスクは?
病院の職員は言った「介護や看護のサービスを利用してできる限り負担のないようにね」
母の年齢は60代前半。介護保険は使うことができない。週に1度の訪問看護でなんの負担が減るんだ。
そして退院前には利用して退院となったヘルパーのサービスは母が勝手に退会していた。都合が合わないかららしい。そうだね、私が買い物とか行けばいいから。いらないね。
旦那は言った「できる限り支えるから」
土日しか帰ってこない旦那に何ができるんだろうか。
誰も助けてくれない。私がやるしかないんだ。そう奮い立たせて今日も子供の寝かしつけが終わった夜に1人で母が食べ終わった食器を洗っている。
◎ ◎
私は母が大好きで、ずっとずっと生きてほしい、それはずっと変わらなくて、でもそれと同じくらいもし介護が終われば私の人生はもう一度やり直せるのにと思ってしまう。
それでも母がずっと言っていた「できる限り家で過ごしたい」という言葉を私は無碍にすることはどうしてもできなくて。気持ちはグチャグチャのまま毎日を必死に生きることしかできない私はなんて無力なんだろうか。
病気で弱っている母に対して最低な気持ちを抱えることをここで懺悔させてほしい。沢山の愛や支援をした結果、こんな子供に育つなんて今流行りの言葉を借りれば、子ガチャ失敗と笑われるだろうか。笑われても仕方ない。
ただ同じように相反する気持ちを抱えて葛藤している人間が私の他にもいたら、この文章を読んで少しでも気持ちが軽くなってくれたら嬉しい。
◎ ◎
さぁ、もう寝る時間だ。2階で寝かしている子もそろそろ夜泣きをし始める頃。
この文章を打つのに夢中になって、冷め切ってしまった目の前のスープを飲んでから、最近ハマっているポケモンスリープを起動して寝るモードに入っている母にいつもの言葉を伝えて、今日も1日を終えようと思う。
「今日も一日お疲れ様。また明日。大好きだよ」