よく、「やっていそう」と言われるけどやっていないことランキング堂々の1位が、「一眼レフとかそういうちゃんとしたカメラで写真を撮ること」である。
かれこれ10年以上は言われている気がする。実際、自分でも15年前くらいから断続的に興味があって、カメラの本を借りてみたり、中古のカメラを調べてみたりする波が定期的に訪れるのだけど、いまだに手を出したことがない。
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ここ数年、さまざまなところに行く機会が多いライフスタイルなので、いい景色を見たり、美味しいものを食べたりすることがたくさんある。写真やってたらいろいろ良いのが撮れただろうに、つくづくもったいないなあ、と思うし言われる。
それでもちゃんとしたカメラを持つに至らない一番の要因は、アウトプット欲がないことなのだろうと思う。どこかに行って、何かを見た時、「わあ〜」と思えば思うほど、その時感じたことを切り取ることなんて到底できやしない、と思ってしまうのだ。
きっと人間の視覚があまりに高性能なんだ。その時見ているものは平面じゃなくて、光や、温度や湿度、いろんなものから情報を受け取って、それが総合的にビジュアルとして立ち現れるのだと思う。だから、その時どきで目にしたうつくしさは、一枚絵に切り取った時にはどうしてもダウンサイズされてしまって、なんだか寂しい気持ちになる。そうしてわたしは写真を諦めてしまう。
今はスマホのカメラの性能も馬鹿にならないし、パッと記録用に何か撮りたい時にはそれで事足りてしまうのも一因だ。もしもいまだにガラケーレベルのカメラしか身近になかったとしたら、写真に対する意識はもう少し違ったかもしれない。
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なんていうふうにずっと思っていたのだけど、少しだけ考え方が変わったタイミングがあった。おいしくて元気が出た食事、びっくりするくらい大きな月、見たことない空の色、そんないろいろに、大事な人に見せたいという思いでスマホのカメラをかざしていると気づいたとき。
そうか、写真って愛なのだ、と思った。
今わたしはひとりでいて、何かにすごく感動したり嬉しい気持ちになったりして、それを大事な人にちょっとでもお裾分けしたいとか、共有したいと思う気持ち。それは「ねえねえわたしこんなに素敵なものを見たんだよ」って自慢したいわけじゃなくて、その場に一緒にいられなかった人と、本当は一緒に見たかったなあという気持ちの表れ。
ああ、写真とは愛のこと!わたしにとって世紀の大発見だった。
そう気づくと今度は、立派なカメラを持ったら逆に、写真が愛ではなく自己顕示のツールになってしまうんじゃないかと不安になり始めた。
もちろんそれはひとつの懸念にすぎなくて、「いいなあ」と思う写真を撮る人たちの作品を眺めていると、そこにはじんわりと愛が浮かび上がっているのがよくわかる。
けれど、わたしも同じふうにできるのかな?となんだか心配だ。みんなはどういう気持ちで、とか、どうやってそれを乗り越えて、写真を撮っているのか、聞いてみたいな。
今のところ、この先の人生、いよいよわたしがカメラを始める日が来るのかはわからない。でも本当はやってみたい。だったら早いに越したことはないよね。
きっとそのファインダー越しに見える世界は、ものすごく愛なのだと思う。