毛穴がなくなる洗顔、ニキビに効く化粧水、乾燥しないパック、頭皮に良いオーガニックシャンプー、髪がサラサラになる大容量ヘアパック。バスルームに集まる話題の品々。しかしこのどれも私には合わず、少しだけ使ってそのままにして置いてある。

多くの他人にとってよいものが、自分にとってもよいとは限らないと何度も学んできたはずなのに、いつの間にか、いつも頭から抜けている。

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世の中は他人で溢れている。中でも一部の他人たちの意見や考えや経験がさも正しいことのように共有され、誰もがそれに合わせなければいけないと大急ぎで歩調を合わせる。その正しさを疑うこともなくただ素直に、よいと言われていることを実践する。おそらくそこにあるのは、皆がよいと言うものを自分もよいと思いたい、共感して同じグループに存在していることを実感したいという所属感への渇望。安心感の追求。

あるいは、「世の中がよいと言うものを自分も知っている」というある種の優越感への欲求とも言えるかしれない。
私も当然例外ではない。バスルームも、部屋も、クローゼットの中も、言うなれば他人がよいと言ったもののコレクション庫である。
しかし私には疑いがある。
それが果たして本当に、私にとってもよいのかという疑い。最近になってそれに明確な答えを持つようになった。

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「友達は大事にした方がいいよ」
幼馴染の話をしていた時に母親が言った。

その幼馴染とは小、中と一緒に、広大な田園風景横目に登校していた。だからと言ってずっと一緒にいるほど仲が良かったかと言うとそういうわけでもなく、学校に行っている間はむしろ他人のようだった。私たちは学校の中で、いわゆる「仲良しグループ」が真逆だった。
お互いの家の場所は、走れば40秒ほどの距離。会おうと思えばいつでも会えたが、高校生に上がって以降は数年に一度会うか会わないかの関係だった。たまに連絡して会っては、共通の話題である地元の話をする。それがちょうどよかったのだ。

私たちは22歳になった。私は大学生、彼女は専門学校に行っていたので早めに社会に出て、お互い時間ができた時はよく遊びに行くようになった。
最初はなんともなかったが、頻繁に何度も会ううちに違和感を抱くようになった。彼女は話してる間、おそらく無意識で、ことあるごとにデリカシーのない発言をする。嫌味を言ってみたり、私のコンプレックスに平気で口出ししてきたりする。

たまに会う程度だったら気づかなかっただろうこんな小さなことに結構くらってしまった。またその時、彼女の素敵な部分よりも、嫌な部分に自分が目をつけてしまったということにもショックを受けたのだった。

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彼女からの誘いに返事を遅らせるようになった。そして数ヶ月をかけて徐々に誘われなくなった。簡単に言ってしまえば、すぐ近所に住む幼馴染のことを私が一方的に好きじゃなくなり、自らの手で疎遠させてしまった。

私は、彼女との関係を蔑ろにしたことを反省しているし、昔からの貴重な付き合いをここで終わらせるのは勿体無いとも思っている。しかし、彼女がいくら私を好いてくれて、楽しいからまた遊ぼうと言ってくれても、私にはそう感じられなかった。

ふとそれの何が悪いのだろうと思った。私は彼女のことが苦手で、苦手だから一緒にいることをやめた。私は自分が何に縛られているのかわからなかった。「昔からの友達を大事にするべき」とは誰が決めたのか、それによって私の心に負担がかかって、何がよいのか。これ以外にも私はいつも、誰が決めた何かに従い苦しんでいるような気がした。

「私が大事にしたいと思ってない友達を大事にする必要がある?」と母親に言い返した。母親は一発くらったような顔をしたのち、「そうだけど」とだけ言った。言わんとしていることはわかったが、私も何も言わなかった。

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何もかもきっと人それぞれなのだ。何かがよい、正しいなんてことはなく、誰かにとって正しいことは誰かにとっては間違いなのだ。だからそれを人に押し付けることはしたくないしできるはずがない。母親もそう気づいたがゆえの沈黙だったと思う。

2023年、友達が1人減った。これからもっと減るかもしれない。しかしそれは紛れもなく、その時々の私にとってよいことである。2024年、世の中の誰かにとってではなく、私にとってよいことを極め、私自身の理想を実現すると誓った。