軽い近視といえど裸眼で十分、日常生活過ごせるくらいの視力の私は、メガネをかけていないと一瞬周りに気づいてもらえない。
私は毎日暇さえあれば画面とにらめっこしている。ほらこうして今も。
スマホを見るのはインスタをちょっとみるか、どこかへ行くときにマップを確認する時くらい。他は大体iPadで勉強しているか、パソコンで仕事をしているかだ。たまに、本当に貴重な休みができたらyoutubeを見ているか、濡れ雑巾のようになったへとへとの身体でベッドにダイブして、うつらうつらしながらテレビを見ているかだ。
そう、私の愛用しているメガネはブルーライトカット用。店員さんには、カット率が高いとレンズの色が濃くなるから見た目的にあんまりと言われたけど、迷わずカット率が一番高いのを選んだ。見た目なんか気にしてられない。どうせ私と顔を合わせてるのは画面だけなんだ。これがないと本当にもう目頭が痛くなってくる。
でも、そんな私が唯一と言っていいくらい、裸眼の私が定着している場がある。
茶室だ。
そこではスマホは勿論ほとんどの電子機器が淘汰されている。
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その日一番のお稽古、障子を開けると、ピンと糸を張ったような活力にあふれた日が隙間から入り込んでくる。まだ水を張ったばかりの釜がきらきらして見える。
お昼になって、人が一番多く集まる時間になると、部屋の奥まで、温かな日差しが照らす。この時間が一番のどかで、お稽古中にも明るい会話が弾む時間になる。
夕暮れ時、赤く染まった茶室。どこか違う世界に入り込んでしまったかのような、不思議な気持ちにさせられる。何も示し合わせたわけではないのに、いつの間にかみんなが会話を止めている。
だんだんと、赤みがかった茶室に伸びる影が長くなって、影が一面に広がる頃になると、先生が手燭(てしょく)を出してくれる。お点前に呼応するように、一挙手一投足に合わせてゆらめく炎はまた神秘的で、周りのものが見えない分、お点前の洗練された手の動きだけが茶室の空気を作り出す。
この空間では電球さえ必要ない。むしろない方がいい。いつまでも変わらない明るさを作り出せることは確かに画期的で便利だけれど、反面、昼夜を問わず仕事に勉強にと目と精神をすり減らしてしまう。日が昇るのに合わせて釜をつけ、日が沈むのを名残惜しむように手燭(てしょく)をつけて最後のお点前を楽しみ、その日を終える。
そういう月に一度の一日がどれだけ私の心を浄化してくれることか。
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どちらが優れているわけではない。ネットも電気もなければ私はこんなにたくさんのことを知ることはできなかったから。でも、自然の日の光に合わせて、全ての時間を美しくしてしまう茶室、茶道というものに出会えたことは私にとっては幸運だったし、どちらの良さも残っているこの時代に生きられてよかったと、お稽古から帰ってまたパソコンに向かう瞬間、心から思う。