最近の女子高生はプリクラを撮っても現像されるシールよりも、スマホでダウンロードするデータがあれば充分という話を聞いてちょっとビビった私、アラサー。

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私は写真が好きだ。

前述したように昨今写真といえば画面の中に浮かんているデータのことを指しがちだが私がいう写真とは現像したもののことを指している。

高校生の頃私は「報道委員会」という委員会の副委員長をしていた。

この大層な名前の委員会の主な仕事は学校行事の音響役として話し手にマイクを運んだりすること、そして写真を撮ることである。

私はこの仕事が好きだった。

写真を撮るという使命を理由に体育祭の長い校長のスピーチ中も列を抜けて話を聞くみんなや、校長先生の横顔を撮れるという点はもちろんのこと、なんとなくいま自分が過ごす何気ない日常は、いわゆる「青春」と呼ばれていて、大人がいくらお金を出しても、戻りたいと願っても戻れないものだと、先生や大人が口を酸っぱくしていうことをなんとなく認識していたからだ。

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なにげなく特別でない日々だけれど、いつか大人になった時分にとっては尊いものになるのだろうな、と、はっきりとではないけれど、思ってシャッターを切っていた。

だから報道委員会の仕事以外にもデジカメをお年玉で買っては持ち歩きよく写真を撮っていた。友達の笑顔、制服姿、教室の前の廊下、机に書いた落書き、時間割。

当時は今ほど盛んでないけれどmixi、Twitter、ブログはありそこに空や、食べた美味しいものの写真をあげたりしたものの、不特定多数の人の目に止まるSNSでは行事の写真はプライバシー、私自身も特定されてしまうので載せられない。

報道委員会が撮った写真は折々でスライドショーとして学年集会で流れたりしたものの、もっと違う形にしたいと行事の写真を全て現像し、一言コメント「体育祭、青組の応援団のみんな!」を書いてアルバムを作り、友達に見せたりした…いわばアナログSNSとでも言おうか…。

見せるだけでなく友達に一言と似顔絵なんかを書いてプレゼントした。
現像された写真はとても魅力的で、高校を卒業してからは特別見せる人もいなかったが、それでも現像しアルバムを作り続けた。

けれど一時期写真の数がめっきりと減ってしまった時期がある、それは私がスマホ依存の重症に溺れていた頃である。

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その頃の私はすぐにSNSにあげれないデジカメ自体あまり持ち歩かなくなってしまい、写真を現像することもお金の無駄のように思えていた、

撮るのは決まってスマホで。 

撮るものも、自分が撮りたいもの、日常の1部の切り抜きではなく、映えるもの、見栄をはったもの、背伸びしたものばかりになってしまっていた。
私の価値観で切っていたはずのシヤッターだけど、いつの間にか画面の向こうの誰かの価値観に従ってシヤッターを切るようになってしまっていた。
そしてそれをSNSにあげては、いいね!の数に心揺さぶられる。

ある日一念発起して、自分を見失うスマホの奴隷の日々に終わりを告げようと、現代、スマホの中に吸い込まれているありとあらゆるものを分離していこうとする中のひとつとして、デジカメを復活させて、今はデジカメを使ってる。
デジカメを使ってる人は、少ない。

イベントで皆がいっせいにカメラを向ける時ほとんどがスマホのカメラだ。
デジカメを持ってると「おっ」「すごいね」というちょっと仰々しいリアクションをされてしまう。
ただ押せばいいだけのデジカメの使い方が分からず相手をおろおろさせてしまうこともある。

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スマホのカメラが性能がよくなっていることはもちろん知ってるし、すぐSNSにあげられるのも知っているけれど私はデジカメが、そして写真を現像することがすきなのだ。
現像するとお金がかかる、1枚40円とかそれくらいだ。

アルバム代もかかる、無償で全世界に写真を見て貰えるSNSと違って誰にも見て貰えない、データとしての写真は手軽に送れるし、褪せたり劣化することもないだろう。

だけど私は今年もう50冊近くなる高校生から始めたアルバムを開くとき、まるでユーミンの歌詞の世界の住人にでもなったかのような、懐かしく、ちょっと寂しさを帯びた愛おしい浸れる…特別な気持ちになるのだ。少し褪せたアルバムの表紙も、年季を感じる写真の台紙さえもとても尊い。

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友達に写真をプレゼントするのも、毎日更新されていく記憶の中…笑いあったこと、慌ただしい日常がかき消すように忘れたくなくても忘れてしまうかもしれないけれど形にして渡すことで毎日思い返すことは無理でも、何かの表紙にひらりと舞って思い出して懐かしむことができるかもしれない。

高校生の頃何気なく「大人になった時に懐かしくてたまらなくなるのかな」と思って切ったシャッター。時を超えて今見返して、あの頃の自分がぼんやり描いていた気持ちがくっきりとわかる。

今は永遠ではないから、今この時を懐かしむ日が来るのだろうかとまた私は未来の自分にぼんやりと投げかけながらシャッターを切る、そしてアルバムを作り続ける。