小さい頃の夢を覚えている。
「しょう来のゆめは何ですか?」
そう記された大なり小なり全ての紙切れに、小説家、と書いた。
周りの友達がパティシエとかトリマーとか書く中で、私の漢字三文字の夢はあまりにも渋かった。
でも、必ず書いていた。

高校に入学してすぐの進路調査票の、「就きたい職業や学びたい学問」の欄にも同じことを書いた。
二者面談から帰った母が、「『木風さん、将来の夢のところに小説家って書いてましたけど……』って笑われてんけど」と言った。
進学校の進路調査票に小説家って書くのはdreamingすぎるのか……と処世術を1つ学んだ。

◎          ◎

小説家という夢を抱くに至るかっこいいきっかけを書きたかったが、残念ながら非常に単純で、多分「よく褒められたから」だと思う。
3年1組は “作文”のシステムが導入されたクラスで、ことあるごとに連絡帳の宿題の欄に「作文」が登場した。
漢字テストも、算数ドリルも全部○か×かで答えがあって、○が多ければ多いほど褒めてもらえたし、実際○も人並みには多かったと思う。

ところが、作文はそう一筋縄にはいかない。
当時クラスには、とてつもなくポエミーな文章を書く女の子が居て、第1回目の作文提出後に彼女の作文が丸ごと刷られたプリントが全員に配られた。
春の情景描写に始まる、若干小学3年生には馴染みのないイカした常体の文章を読んだ私は面食らった。

◎          ◎

自分の作文は多分○だろうけど、あの子のやつは◎だな、と思った。
学ぶという言葉の語源は「真似ぶ」らしい。
感化された私はそこから果てしない量の文章を読んだり書いたりするようになって、作文帳は3冊ぐらい使い切った。
その人にしか生み出せないものがある、というのを一番初めに教えてくれたのがこの作文の経験だったのかもしれない。
現在に通ずる、若干の“奇を衒い屋”の資質は、多分ここから来ている。

◎          ◎

文字書きを夢見る中で、私は途中で音楽もやりたくなって、やった。
「吹く」と「書く」は全く別の動作だが、この経験が私の中にたくさんの言葉の広がりを産んだ。
数々の無名中学を吹奏楽強豪校へと育て上げた先生は、テンポが〜とかピッチが〜とか、楽譜と照らし合わせた時の音楽の○×に関してあまり強く言わない。
たいていの場合は、
「うん、合(お)うてへんから、次までにちゃんとしといてや」
の一言で済ませた。

「ここのスネアは、ほっそい深海魚が海底でコソコソ泳ぐときの感じで叩いてくれ」
「こっからフォルティッシモや。このフォルティッシモは、太――――――い幹の木に、ぐ―――っとめいいっぱいまで手ぇ回す感じで吹くんや」
残念ながら部員の中に世界を飛び回る探検家はいなかったので、私たちは暗闇を泳ぐ"ほっそい深海魚”も、手を回しても届かない大木も知らない。
それでも馬鹿真面目な私たちは、五線譜の隙間に「深海魚」「幹」と書いて、来る日も来る日も花鳥風月の音楽をした。
心が洗われる日々だった。

「言葉にはな、魂がある。言霊ってあるやろ。一回言ったらな、もうその言葉は帰ってけーへんねん。めんどくさいとか嫌いとか、キモいとか言った口と、楽器を吹くお前の口は一緒の口や」
同じ言葉を繰り返す先生に、嫌気がさしたことはなかった。
それほどまでに先生の言葉には力があって、合奏の時間は吹く時間と話を聞く時間が半々ぐらいだったが、私たちは毎日着実に上手くなっていた。
そして、先生の言葉が人間を創った。

◎          ◎

音楽を長く続けた後に、学生生活最後のチャンスで、私はまた新しいことに飛び込んだ。
音楽の経験を通して、“創ったもので誰かの心を打つ”ということに自分が最もやりがいを感じるのだと解った。

新たな挑戦の場もまた“舞台”で、私はそのノウハウや技術を0から身につけることになったが、これができない。
毎日ずっと、できない。
音楽の世界では、チームに対する自分の貢献にある程度自信を持てていたものの、今回は全くのお荷物だ。

大きなチームの中で、自分が居る意味を見出せない時間が長く続いたことがとても辛かった。
そんな頭の中でも、言葉は1分1秒と紡がれ続けていた。
何より、その場所に居る人達のことが心の底から好きだったし、曲がりなりにも自分にできることをしなければという思いだけはあった。
辿り着いた先は、やっぱり言葉だった。

◎          ◎

今まで言葉をたくさん得てきたこと。
先生の言葉が自分のダメな気持ちを救ったように、自分の引き出しにあるものをとにかく集めて、それで誰かを支えることしか、自分にできることはなかった。
「一人で音楽してるんちゃうで。そんなんやったら家でやり。お前たち何のために音楽室に集まってんの」

時が経っても先生の言葉は色褪せず、“チームの在り方”を口を酸っぱくして伝え続けてくれた言葉は、ここでも生きると思った。
前に立って話す。電車に揺られて話す。日を跨ぐ真夜中には、布団の中で信じられないぐらい長い文章をLINEでやりとりした。
そうやってとにかく言葉を紡ぐことに徹した。

表現のプールに浸り続けて育った私の言葉は、若干突飛みを帯びすぎていた気がするが、言葉を紡げば、誰かが耳を傾けてくれた。
考え抜いて話したこと、書いたものを、いいね と言ってくれる温かい世界だった。
言葉をもって周りに貢献しようと言いながらも、自分自身もその「言葉を紡ぐこと」自体に救われていたんだと思う。

◎          ◎

今、「書く」という自分の原点に再び着地している。
初めと違うのは、「書く」先に「届ける」という目的が必ずあるということ。
言葉が伝わる、という真の意味を知ったあの頃から随分と時間が過ぎて、私は大人になった。
嫌なこと言った汚い口で楽器なんか吹くなと言われて、あんなにも青ざめたはずなのに、しんどい、めんどくさい、嫌、最悪の言葉をいとも簡単に発するしょうもない人間になってしまった。

それでも、言葉で誰かの気持ちに触れることを諦めたくない。
大人になればなるほど、熱のこもった言葉を音にする勇気が持てなくなっているなと思う。
でも何となく、書くことなら続けていけそうだと思う。
国語便覧に名を連ねる文豪にはなれなかったけれど、私の書く言葉は私が今まで得てきたこと全てだ。

先生のように、誰かの人生を変えることはきっとできなくても、目の前の人が「そう言ってくれて/書いてくれてありがとう」とホッとすれば、私の人生には十分だ。
鼻で笑われるようなしょうもない文章も、感情のままに書いた支離滅裂な長文の手紙も、誰かを勇気づける熱いLINEも、大事な人にはたくさん書き続けたい。

「言葉にはな、魂がある」
その通りだと心の底から思う。