高校3年生の6月。私は緊張しながらスクリーンを見つめていた。左隣には部長、右隣には他校の生徒が座っていて、真剣な面持ちで前に置かれているスクリーンに注目している。これで、私の運命が決まる。いや、その時は生死が決まる、と言ってもいいほど本気だった。放送部の全国大会出場校が、まさに発表されようとしていた。

放送部の「甲子園」N杯

高校生の頃、放送部に所属していた。放送部と言えば、校内放送や体育祭の実況などを連想する人も多いと思うが、実は放送部には、「NHK杯全国高校放送コンテスト」、通称「N杯」と呼ばれる有名な大会が開催される。

年に1回開催されるこの大会では、大体1分半ほどのアナウンス(校内放送を想定されることが多い)、朗読、7~8分程度のテレビドキュメントやラジオドラマなどのクオリティを競うものだった。

全国大会の決勝は、NHKホールで開催され、進出するためには地方予選と決勝、全国大会の予選を数回パスする必要がある。1万人以上の高校生が優勝を目指して汗と涙を流す、大規模な大会なのだ。

食事も勉強も後回し。ラジオドラマにかけていたあの日々。

私は、朗読と、部門の1つであるラジオドラマの脚本を担当していた。大学受験を控えていた私達にとっては、最後の大会だった。

その日は都大会の決勝。朗読部門の予選に敗れていた私は、ラジオドラマにかけていた。製作期間は半年。出来栄えについて同期と口論したこともあった、朝から晩まで部活のことばっかりで、お昼を食べ忘れたこともあった。授業中はほぼ寝ていた。それくらい必死だったから、報われたい気持ちがあった。

さらに、私が思い詰める理由はもう1つあった。ラジオドラマ部門の結果発表は最後。それまでに、母校からの決勝進出者が1人も出ていなかったのだ。「15年連続全国大会出場」。母校のパンフレットに書いてある言葉を、私達が消すことになってしまう。その不安もあった。

結果はあっさり決まった。スクリーンにパッと結果が表示される。全国大会に出場できる作品は上位2つ。私たちの作品は、3位だった。

隣に座っていた学校が、みんなで抱き合って大きな声で喜んでいる。やったー! よかった……。

あぁ、ダメだったな。やけに冷静な自分は、喜ぶ他校の生徒を、ぼんやりと眺めていた。隣に座っていた部長が、どんな顔をしていたのかは覚えてない。

夢が破れても前を向けた理由

大会が終了して、後輩の前では涙をこらえていた私達。解散した後、コーチから高3の私たちだけを集めて声をかけた時、耐え切れず流した滝のような涙。グスグスしながら帰った私に「結果が出たならもうしょうがないじゃない、それより早く風呂に入りな」と皿洗いをしながらあっさり言った母。

当時は、「こんな悔しいことは一生忘れないし、なんならトラウマにもなるだろうな」と思っていた私。しかし、思ったより立ち直りは早かった。その後文化祭、受験勉強、センター試験……とやることがてんこ盛りだったこともあるが、一番の理由は「やり切った」という思いがあったからだろう。

もちろん、「もっとあの時のテンポをゆっくりに編集していたら」「あの時のセリフの言い回しを工夫できていたら」と考えてしまうことは今でもある。

ただ、当時はそんなことを考える余裕がなかったくらい、頑張ったと言えるから。後悔がないくらいやり切ったからこそ、すぐに切り替えられた自分がいた。

後悔する隙がないくらいの頑張りは、私の心を支えるお守りとなる

この経験があったからこそ、私は何事も「死ぬほど頑張ってやり切る」ことをモットーにしている。そしたら、どんなに悔しいことがあっても、理不尽なことがあっても、「まぁ頑張った結果だからしょうがないし、この経験は無駄にはならないだろうな」と頭を切り替えられるからだ。

実際に、大学生、社会人で大変なことがあっても、「放送部の時あれほど頑張れたんだから、きっと今回もなんとかなる!」と思える。全国大会は行けなかったけれど、緊張を真っすぐに受け止めていたあの日々は、今の私のお守りのような存在だ。