私は自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたもの、それを受けて自分が感じたことを信じて生きていきたい。これが2024年私の宣言である。
私には「推し」がいる。
昨今はSNSや動画サブスクの発展により、いろんな媒体で推しの活躍を見ることができる。X、インスタ、YouTubeなどの推し本人が発信しているものから、ラジオ、テレビ番組、配信サイトまで、それはそれはたくさんの情報であふれていて、推しのいろんな姿をたくさん見ることができる。文明の発達、万歳。
その一方で推しがボコボコに叩かれて炎上することもあれば、自分が行けない現場に行く同担の方のツイートを見て悲しくなることもある。
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そんな私が一番大切にしていることは、現地に足を運び、生で推しを見ることである。もちろん現地に行くことが全てではないが、決まった時間に毎週ラジオを聞いたりYouTubeの生配信をかじりつきで見るということが苦手な私にとって、現地に行くことだけが強制的に推しに集中する術なのだ。
推しが舞台上で生命力を漲らせてパフォーマンスする姿を見る度に「私はこれを見るために生きてきたんだ」と心の底から思う。「こんなものが見られるなんて人生捨てたもんじゃないな」と心が震えて、なんだか泣きそうになるのだ。
推しを見ている時のなんとも言えない高揚感や幸福感は、言葉にするのが難しい。このふわふわとした感情が、言葉にすることによって自分の中で凝り固まってしまいそうで、嘘になってしまいそうで。
ぼんやりしたまま「楽しかったなぁ」とか「嬉しかったなぁ」と思ったそのままを持っておきたい反面、その時の感情を後で思い出すためにも言葉にして残すようにしている。もし言葉にすることで凝り固まってしまっていたとしても、時を経てそれを読むと心の底にある宝石を手にとって眺めているようで、確かにこの素晴らしい経験はあったんだと思うことができるから。
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私は推しを推すという行為は、宗教に近いと考えている。自分の中で推しを「解釈」し、その推しの「偶像」を心の中に作り上げて信仰する。
同じものを見ていても、同じ発言を聞いていても、それを受け取る人間の作っている「偶像」は千差万別なので、受け取り方も人それぞれ変わってくる。
ある人が「推しのために」と行動したことも、ある人にとっては「推しの足を引っ張ること」だという認識になることもある。
だからこそ、みんなそれぞれが己の信じるものを信じて、なおかつ誰かが信じるものを否定することなく生きていけたらいいのになと思う。
誰が正しいとか、誰が間違ってるではなく、みーんな正しいし、みーんな間違っているのだ。
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推しが何を考えているか、何が好きか、本当のことなんて何にもわからない。知っているのはせいぜい顔と名前だけだということは重々承知している。
だけどその中で実際に見たもの、聞いたもの、そしてそれによって自分が感じたことだけは本物だと思うから。正しいかもしれないし、間違ってるかもしれない、ともすれば気持ちが変わってしまうこともあるかもしれないけれど、その時の気持ちが嘘になるわけじゃない。きっとずっとそこにいてくれている。
だから私は自分が感じたことを信じて生きていく。