昔から、写真を撮るのも撮られるのも一方的な感じがして好きじゃない。シャッター音の体を射抜くような音も苦手だ。が、今はスマホで簡単に撮れてしまうし、家族や友人で一緒に撮ろうというときに、いちいち断るのも逆に「面倒くさい人」と思われるので、しぶしぶ写っている。そして、写真が送られてくるたびに思う。

「うわ。私って、こんな顔してるんだ」

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スマホ以前は、それほど自分の写真を見る機会が頻繁にはなかった。だから、「この時はたまたま写真写りが悪かったんだ」、「角度が悪かったから、こんな顔に写ってるんだ」と、自分をごまかし、なだめることが可能だったわけである。しかし今、スマホで撮られた自分の顔を毎日のように見ていると、その変な顔は「たまたま」ではなく、これが私の「普通」なのだということが分かって来る。

自分は美人じゃないというのは百も承知だ。思春期ではないのだから、今さら自分の容姿に悩む年齢でもない。もう30年近くこの顔と付き合ってきて、それなりに愛着もある。けれど、それにしても、自分で鏡を見るとき、いかに自分の脳が自動補正機能をかけて自分の顔を見ているか、ということを突き付けられる。私はインスタグラムをやらないけれど、やっている人のあいだで写真加工アプリが流行るのも当然だと思う。この前、山本文緒さんの話題の小説『自転しながら公転する』を読んでいて、こんな箇所があった。部屋を片付けるとき、目視で確認して、きれいになったと思っているのなら、一度写真に撮ってごらんなさい、というものだ。主観できれいに片付いたと思っていても、レンズ越しの客観では、ずいぶん散らかっているように見えるとか。写真は残酷なまでに正直なのである。

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今はどうか知らないが、私が中学生の頃、遠足などには写真屋さんが同行していて、行事が終わったあと、廊下にスナップ写真の見本が展示された。そのなかから購入を希望する写真の番号を控えてお金とともに先生に提出するという、あれである。自分が写っているのを購入するのはもちろん、好きな子が写っている一枚をひそかに購入する、というのが流行っていて、学年で一番美人の女子が写っているスナップ写真は、おそらく相当枚数焼き増しされたことだろう。誰が誰の写真を買ったか、というのが、あの頃のみんなの一大関心事だった。一方、私はと言えば、自分が写っている写真すら購入したくなかった。だから、写真の希望申込書は出さなかった。

すると担任教師が困ったように言った。「あなたが写っているスナップが余ってしまったの。あなたが責任をもって買い取ってくれないかしら? あなたの写真を他に買ってくれるようなファンもいないわけだし」と。教師は冗談めかして言っていたが、私は傷ついていた。だから私は意地でも、自分が写った写真を買い取らなかった。教師は仕方なくその写真を職員室の自分の引き出しにしまった。

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お蔵入りした写真がその後どうなったか、知る由はない。おそらく捨てられてしまっただろう。それで構わない。私は自分が写真を捨てることに躊躇がないので、他の人が自分の写真を捨ててしまったとしても一向に構わないのだ。例えば、昔の彼氏と撮った写真など、大事にとっておくという人もいるだろうが、私はあっさり捨ててしまう。

両親もさほど写真に執着がなかったので、入学式・卒業式・結婚式などの写真も最低限しかない。アルバムを見返して悦に浸るような懐古趣味もない。「写真を撮ることに気を取られていないで、自分の眼でしっかりわが子を見届けたい」というのが両親のモットーだった。写真に残さなくても節目節目のシーンは鮮烈に目に焼き付いていると言っている。