幼い頃は写真が好きだった。当時はスマートフォンはもちろんのこと、デジタルカメラもなかったそうで、親がフィルムカメラでたくさんの写真を撮ってくれた。

自分がまだ首も座っておらずふにゃふにゃしている写真から、お食い初めをする前に兄の真似をしていつの間にかおむすびを頬張っていたという写真、お昼寝をしている日常の一コマや、小学校に上がって家の近くで嬉しそうにランドセルを背負っている写真まで、それはそれはたくさんの思い出を現像してもらった。

当時は、ただ親が嬉しそうにカメラを向けてくれるので、兄とふざけながら楽しく撮ってもらっていたと思う。

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ところがどっこい、今は写真がそんなに好きではない。昔と今とで、写真に対する構え方も大きく変わった。昔はただ、楽しくポーズをとればそれでよかった。「盛る」という概念もなかったし、幼い子供は笑顔でいればそれで「かわいい」とされる。

しかし、中学に上がった頃からスマートフォンが普及し、いつでもどこでも誰でも写真を撮れるようになった。また、それをSNSに載せて当事者以外の人の目に触れる機会も増えた。同世代の子たちはみな、できるだけかわいい自分を撮ろうと、フィルターをかけたり顔の一部を隠したり、試行錯誤する。

私はそれが昔から苦手だった。写真のときだけ構えて普段と違う自分になることに恥ずかしさや抵抗感がある。そして何より、いくら決め顔をしたところでかわいいと思える写真は撮れないと自分でわかっているというのが大きい。

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私の場合、100枚に1枚盛れた写真が撮れるか否かの世界だ。その他は目も当てられない。それだから写真を撮るときはテンションが下がるし、そんな状態で撮った写真が盛れているはずもなく、写真に写った自分を見るたび、現実に悲しくなる。

友人数名とプールに行った。私はウォータースライダーに乗りまくり、泳ぎまくってはしゃぎたかった。しかし、他のみんなは自撮りしていて、写真に夢中になっていた。正直そんなに楽しめなかった。私はウォータースライダーに乗りたかったが、友達を誘っても誰ひとりついてきてくれず、とぼとぼと独りで乗りに行った。私ひとりとその他の友達の間に大きなズレを感じた。

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私の友人をはじめとする多くの人は、自分の最大値・もしくは自分を超えた自分の写真を撮るのが好きだと感じる。たしかに、どうせ顔が形に残るなら、最大限に可愛くありたいと思うのは自然なことだ。

しかし私は、どちらかというと自然体の日常の一コマを撮るのが好きだ。前を行く友達の後ろ姿やふとした表情を撮りたくなる。好きな人だと尚更、作られていないさりげない表情を撮りたくなる。

しかし、写真と縁が切れることは今後の人生でもないだろう。人が撮ってくれた写真を見て、自分がどんな服やメイクが似合わないのか、どう改善すればいいのかを知ることができたのも事実だ。写真は、真実を写す鏡だ。楽しく日常の一コマを収めつつ、時折現実に向き合って少しでも改善できるなら、写真も悪いものではないかもしれない。