鏡の中の自分と、写真の中の自分が違いすぎる。鏡で見る分にはまだマシに感じる。真実を写すという文字からなる"写真"は、私の苦手な物の1つである。

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自分の写真りの悪さに気が付いたのは、幼稚園を卒園した時。卒園アルバムを開いて驚愕した。
「私だけ笑ってない」
厳密には、「うまく笑えていない」だった。

卒園の何ヵ月か前、地元の写真屋さんが幼稚園にやってきて、一人一人の写真を撮ってくれた。名前順に並び、順番に顔写真を撮る。前の子達は、ほぼ一発OK。椅子に腰掛けると、「はい!笑ってー!」と言われた。

「んー、もうちょっと笑えるかな!」
もうちょっと笑ってみる。
「んー、、そうだなぁ、、、」
今思えば、どうしたもんか…という表情だったが、当時の私は特に何も思わなかった。

でも、他の子より手間がかかっている事には気付いていた。何回か撮り直した後、「うん、まあいいか。オッケー!」そう言われ退室した。結果は、全然まあよくなかったことは前述の通りだ。

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親が撮ってくれた写真も、ほぼ無表情だった。現像したそれらを見て、「まったく、愛想もへったくれもないな」と冗談っぽく言われたこともある。私には冗談に聞こえなかったけど。

小学生の頃には、「笑って」と言われて笑うことができないことを自覚していた。なぜ笑顔が作れないのか、それは自分でも未だにわからない。自己肯定感の低さのせいなのか、なんなのか。

私はお笑いが好きで、「笑う」という行為はごく自然にしている。おもしろいものを見て笑う、これと「笑顔を作る」は、どうやら別物らしい。

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小学校も中学校も、運動会や遠足、林間学校などの行事ごとに「写真展」がある。写真展というのは私が今勝手に名付けたものだが。行事の際に、カメラマンが撮ってくれた写真に番号が振られ、廊下の壁に貼り出される。封筒に欲しい写真の番号を書いて、必要な金額を入れて提出する。後日その写真が手元に届くというシステムだ。

私が写っているシーンは少ない。それでよかった。自然な姿を写したものの中に、「写してほしくて写してもらった」シーンもある。仲良しグループでポーズを決めたり、ただ隣に居ただけなのに一緒のフレームに入ったり。カメラマンも積極的にそういうシーンを撮っていた。

私は声をかけられないように逃げていた。
「数ヵ月後に廊下に貼り出される。見世物になるなんて御免だ」
別に誰も見ていないはずだけど、意地悪な人間にはすぐ見つかったりする。世界はそういう風にできている、とさえ思っていた。「ブス」と日常的に言われている人間には当たり前の思想だ。見つかる可能性を潰しておきたい、恥をかきたくない、そんな思いもあった。

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高校時代はそれなりに楽しく、私をけなす発言をする人間も校内には居なかった。3年生になると、「アルバム担当」なる役割が生じる。センスに自信のある一軍女子たちが立候補してくれて、華やかなクラスページになることは確証された。

修学旅行の時、アルバム担当女子にカメラを向けられた。
「あ、私はいいよ。2人で写りな」
友達と3人でいたところ、アルバム用に!とのことで写真を撮ってくれようとした。その子も友達も「え?」という表情だった。「せっかくだし、撮ろうよ」と友達に促され1枚撮ってもらった。完成したアルバムを見ると、クラスページに私は1人しか居なかった。他のクラスメイトは、あらゆるシーンの表情が載っていたけど。

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インスタグラムが流行ったり、自撮りが流行ったり、加工が流行ったり、それらは私には興味の湧かない事象だった。加工しても現実は変わらないし、それをかわいいと言われていい気分になる意味が私にはわからない。

ダイエットをしようにも、ビフォーの写真を撮りたくないから、体重が落ちてもスタイルに変化があったかわからない。容姿でなんだかんだ言う時代じゃなくても、私が私の顔を見たくないことを覆せる理由ではない。

最近思ったことがある。
「写り方ってあるよな」

綺麗な人が、わざとブサイクに見える角度で写真を撮っていたりする。その逆で、私にもマシに見える角度があるのかもしれない。陰影とか、表情とか、目線とか、そういう工夫もできるのかもしれない。

しかし、未だカメラに映る自分の顔が嫌いである。
「鏡は反転してるから、自分はそれに見慣れていて、写真にる姿が違って見える」
調べてみたらこういうことだった。

「自分を見つめる」ことは怖いこと。私の中にはこういう感覚がある。「自分と向き合う」ことが今後の課題であることがわかったので、写真についてもそうしていきたい。ただ、このハードルはどんなことよりも高そうである。