わたしは自撮りができない。
いつからか分からないが、最近自撮りができなくなったことに気づいた。

まず自分一人でカメラに向かうことができない。それから、誰かと一緒に写真を撮るときは、いつも相方に写真を撮らせてしまう。なぜか自分から自分にカメラを向けられないのだ。

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まず、自分が撮る側と撮られる側の両方を担うことに耐えられない。自分は少しでも上手く写ろうとする。しかし、撮る側でもあるから、そこを撮る側の技量でもって、補おうとする。その結果、写真に納得のいかない度に、「撮る側の技量で補えない現実」が自分の顔面に浮かび上がってきて、なんとも虚しい気持ちになる。被写体がよければ写りなんて自然と良くなるに決まってる。その現実に抗いながら、少しでも良い写りの写真を残そうとするのも切なくなってくる。とにかくプラスのマインドになれない。

次に、自撮りをしているとき他人からどう見られているのか気になってしまう。そもそも、自撮りをしている姿が苦手だ。スマホを斜め上に持ち上げ、自分の顔と向き合いながら、納得のいくまで写真を撮り直す。この動作が滑稽に思えて仕方がない。流行りの言葉を借りるなら、「共感性羞恥」、まさにこれ。第三者の視点から見るのもたまらなくなる。その考え方のせいで、どのように見られているかが気になって自撮りができない。人混みの中で自撮りができる女子高生やカップル、観光地などで自撮りしている海外の方を見かけると、強靭なメンタルだと考えてしまう。

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あとは、自撮りの成果物も見るのがつらい。画面の端に映る顔。集合写真の場合は、他の人よりも顔面が大きく写らざるを得ない。また、人によってカメラマンより一歩下がり、少しでも顔を小さく見せようとする者もいる。その他にも、被写体の視線も気になってしまう。カメラのレンズでなく、画面に映る自分の顔を見ながらシャッターが押されると、視点の下がった顔になるのだ。そうした写真をSNSで見かけるたびに、被写体達の思考を想像してしまって、純粋に写真として見れない。

しかし、これでは思い出を写真に残す手段がなくなってしまうと不安になった。そこでわたしは、写真は全て人に撮ってもらうことにした。これが結構自分には合っている方法だった。

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まず、写真を撮ってくれそうな人を探して声をかける。狙い目は女性だ、グループだと尚のことよい。「撮りましょうか?」と声をかけて「次に撮ってもらってもいいですか」とスムーズに写真をお願いすることができる。サービス精神旺盛な方だと「いい感じです!」と褒めながら撮ってくれたり、しゃがんだりして撮ってくれることもある。また、若い方だとスマホを使い慣れているために、さまざまな機能を教えてくれることもある。女性でなくても、カップルや小学生くらいの子どもでも写真を頼んだりもした。

この方法の最大のメリットは、「撮ってもらえますか」の先にはポジティブなコミュニケーションしか生まれないことだ。頼まれてる以上、自然と上手く撮ろうとするし、自分もその恩を返すように写真を撮る。それに、もし写真が上手く撮れなかったとしても、それも一つの笑い話となって思い出にすることができるのだ。

スマホができて、写真の多くは自撮りという自己で完結する行為となった。でも、わたしのようにその自撮りという行為に取り残された人もいるはずである。そうした場合は、アナログな手段ではあるが、勇気を出して「撮ってもらえますか」と声をかけてみてほしい。写真の新しい楽しみが見つかるかもしれないから。