私は、神社でお守りを買わない。
自分でお守りを買ったのはいつだったか……なんてことを2024年の初め、友人と初詣に行った神社の境内でふと考えた。
おぼろげな記憶の中で思い出せたのは、学生時代。
修学旅行で回った神社仏閣で、みんなが買っているからという理由で買った、キティちゃんが描かれたお守りという名のお土産だ。おそらくだが、それ以降、私はお守りというものを買ったことがない気がする。
参拝を済ませた後、私の友人は「私、今年のお守り見てくるね」と神社内の絵馬やお守り売り場に行ってしまった。
後から詳しく聞くと、どうやら友人は、毎年お守りを買っているらしい。そうか、毎年わざわざ新しく買う人もいるのか......と思い、周りを見てみると、普段注視していないから気づかなかったが、意外とお守りを買う列に大勢の人が並んでいたことに気づき、少し驚いてしまった。
私にとってのお守りについて考えたら、兄から貰った本棚が浮かんだ
そんな風にお守りについてつらつらと思いを巡らせていたら、私も買おうかな、という気分に一瞬なったのだけれど、結局やめてしまった。あまり、気乗りしなかったのだ。私にとってのお守りというものを考えたとき、手の中に収まる可愛いデザインの袋が、どうにも効果があるとは感じられなかったからである。
じゃあ私にとってお守りって何だろう、と自問しながら、私は自宅にある大きな本棚を思い出した。学生時代に兄からプレゼントしてもらった、とても素敵な本棚だ。
私が学生だった当時、親元を離れ1人暮らしをしていた兄は、大学院で物理学を学び、それはそれは大量の本を読んでいた。遊びに行った際、ほぼ壁一面が本棚と化している兄の部屋は、今まで培った知識が蓄積された、兄の心を作る養分のように感じた。
年が離れているせいか、昔から優しかった兄。兄の知性や聡明さが、私はその本棚から作られているように思えた。
兄ほどではないが、小説やエッセイなどが好きだった私が、兄の本棚に憧れているのを知っていたからだろう。その後、社会人になるタイミングで、私にも自分と同じ本棚をプレゼントしてくれたのだ。
本棚を貰った当時、棚の面積は半分しか埋まらなかった。いつか、この本棚がいっぱいになるまで本を読もう。好きな言葉で埋め尽くそう。そう思った。そしたらきっと、私は兄のようになれるはずだと高揚感を抱いていたのをよく覚えている。
そして今、その本棚には隙間なく私の心を支える本たちが肩を並べている。
埋まった本棚は過去の私の全てを知っていて、歩いてきた軌跡が見える
5年以上の時をかけて、自宅の本棚は本で埋められた。
当時は、本が埋まったその瞬間に何かが起こる......というぐらいの期待感を持っていたが、本棚に余白がなくなっても、何かが起こることは別になかった。私は普通のどこにでもいる看護師になり、立派な社会の歯車の1つとして働いている。
ただ、本棚を牛耳る本たちの顔は、随分変わったように思える。学生時代は、ベストセラーや話題本を多く読んでいたけれど、本を読んでいくうちに段々と自分の好みがわかるようになり、現在は私の個性爆発の本棚ができあがってしまった。
一角には、西洋絵画の本が増え、それに伴い世界史や文化に関する本が増えた。世界史を勉強すると、映画が楽しくなって、現在はパートナーと一緒に週末2人で映画を見るのが楽しみの1つとなっている。
仕事の人間関係に悩んだときは、コミュニケーションや実用書を読んだし、恋がうまく行かずに孤独な時は、多くの小説が私の心に寄り添ってくれた。どの本もすべて、兄から貰った本棚におさまっている。
本棚は1年ごとに変わらないし、持ち歩くことはできないから、正確にはお守りとは言えないのかもしれない。けれど、過去の私の全てを知っていて、私が歩いてきた軌跡が見える。
いつでも、私を形作る本たちを綺麗にしまってくれている場所である本棚が、私にとってお守りのような役割をしているのだろう。いつもありがとう、と言いたいくらいだ。
きっと、昔買ったキティちゃんのお守りより、効果があるに違いない。私はそう信じている。