私にとってのスマホの最近の罠は、YouTubeのショート動画だ。画面を上から下にスクロールするだけでどんどん新しい動画が流れ、そのどれもが刺激的で続きが見たくなるように上手に編集されている。そのため、気が付けばあっという間に時間は溶かされていることに、しばらくたって気づく。
時間は物理的に目に見えないけれど、すさまじいスピードで私たちの周りをビュンビュン飛び交っている、というお話を漫画で読んだことがある。時間は大切だとずっと言われているのに、朝の五分が夜の五分と同じだと私はいまだに信じられていない。
だけど、スマホは私たちのそんな貴重な時間を事も無げに余裕で奪い去ってしまう。
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毎朝イヤホンを必死でカバンの中から取り出すことから始まり、装着すれば世界からの音が遮断されてなんだか落ち着く。自分のペースでいられる安堵感を感じているのだから、私はもうイヤホン依存症である。
電車が来るまでのほんの数分の時間ですらも、スマホを取り出し、意味もなく興味もないニュース記事をタップする。知りたくもないゴシップ記事や、見たくもないインスタグラムの情報をいれる癖は、いったいいつから身についてしまったのだろうか。いつからこんな情報過多な社会になったのか。
何もかも、スマホのせいだといってしまえばそれまでだが、スマホから得る情報の多さに疲れ切ってしまうのは、完全にそれ以外の時間の使い方を忘れてしまった私たち現代人の汚点なのだと思う。
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先日、珍しく家にイヤホンを忘れて出勤してしまったことがある。最初は焦り、一日の絶望を感じたが、ふと外の世界の音を聞きながら歩くのは何時ぶりかと実感した。車の走る音、鳥のせせらぎ、人々の会話。何もかも人工的な音で遮断しながら、意味もなく音楽を探す延長でずっとスマホを触っていたっけ。
その日は久しぶりに一度もスマホを取り出すことなく出勤した。ふと取り出すのは文庫本。何にも邪魔されず、今日は自分の世界を生きようと決めてみた。
最初は雑踏にそわそわしたけれど、慣れてくるとこれが本来普通だったんだよなと、以前の生活を思い出した。
音楽を聴きながら読書をするより、イヤホンなしのほうがずっと内容も入ってきた。
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思えばまだスマホがなかったころ。私が中学生のころは、まだガラケーだった。ちらほらスマホを手に入れる子もいたけれど、私の母は「そんなもんまだ早い」と言い、その理由で買ってもらえなかった。
ガラケーに戻りたいかと言われればそうではないが、あの頃は今よりも現実を生きていた気がする。意味もなくラインを続けるということも、既読がつくつかないで右往左往することも、意味もなく流れてくる動画をスクロールすることも一切なかった。
ガラケーで必死にボタンを連打して打ち込むメールは一通一通が貴重で愛がこもっていたように思う。あの子が学校以外でどんな生活をしているのかを知れないことが、かえって魅力的だったと思う。多くの時間を自分のために使っていたから、もっと読書や映画鑑賞をしていた記憶がある。
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あの頃は、もっと現実を生きていたと考えると、今がいかにネットの世界に時間を奪われているのかを考えてしまう。
このエッセイを書いて、私は改めて以前のスマホに依存していなかった時代を思い出してみた。今は「人に見てもらうことで承認欲求を得る」という時代になってしまったように思う。何をしていてもストーリーだユーチューブだと載せ、「いいね」をもらう。それだけのことだ。
あの頃は、自分で好きな絵を家で書いて、好きなテレビを見て、行きたい場所に行って、それでしっかり満足していた。それを誰かに見てほしいというてらいもなく、世界が自己完結していた。そんな時代に、少し思いをはせてスマホの使い方を改めて考えていこうと思う。