物持ちの悪い自分だが、腕時計は同じものを10年近く使い続けている。外に出るときは必ずつけていて、腕にない日はなんとなく不安になる。だからきっと自分にとっての「おまもり」なのだろうと思う。

この腕時計は中学に上がる際、電車通学になる私に父が買ってくれた。東京の大きな駅の電屋の時計コーナーに行き、秒針があり、ソーラー電池で、皮のバンドの時計を選んだ。優柔不断な自分には珍しく、さほど悩まずに選んだ記憶がある。当時の陳列棚の様子まで詳細に覚えているのだから、その時の喜び様がよくわかる。

以来、学校でもプライベートでも必ず手首に巻いてから外に出ている。何度か意図せず机にぶつけたりコンクリートに落としたりしているが、それでも10年近く動いてくれている。
特に中高時代のテストではよくお世話になった。教室に時計はあるが、それでも不安なので時計を机の上に出し、試験が何分何秒までなのかを問題用紙の上のほうに書いてから解答を始める。

入学試験の何となく不安な気持ちも、時計を見ていると静まるような気がしたものだ。

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時計を忘れたことに外で気づくと何となく不安になるし、なにより時計がある前提で何も巻いていない手首をかざしてしまうのが何となく恥ずかしい。あの子、腕時計を忘れて腕をじっと見ているわ、なんて陰で笑われていませんように。
先日もアルバイトへ向かう途中で腕時計がないことに気づき、どうしても必要だったのでコンビニを4軒回ったが、結局見つけられなかった。アルバイト先に予備の時計があったのでその日は事なきを得たものの、腕時計が想像以上に社会から必要とされなくなっている現実を目の当たりにした。

とはいえ、そのこと自体に驚いているわけではない。時間を確認するだけならスマートフォンのホーム画面を見るだけでよいのだ。自分もよくそれは理解していて、電車の時間が迫っているときなどはスマホの画面で確認することもある。デジタルの時計に慣れていないというわけではないし、そもそもスマホの画面だってアナログ表示に変えられる。

では、自分はどうしてアナログの腕時計を使い続けているのだろうか?

この文章は大学のカフェテリアで書いている。今も針を進める時計を見つめていると、この質感が気に入っているのではないかと思い至った。動き続ける秒針、重なる針のわずかな厚みが、目に見えない「時」を質量のある形にしてくれるようだ。確かにこれはスマホの画面上では感じることは難しい。
加えて、自分は数字が苦手なのだ。「12時15分まであと何分か」と聞かれて目の前の時計が「11:37」を示していたとしても、まずは頭のなかに時計盤を浮かべなければ答えることができない。自分の脳みその融通の利かなさに悲しくなるが、思考の短縮化のためにもアナログの腕時計を使用することは必然なのかもしれない。

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いつも家を出る直前に腕時計をつけている。そうすると気持ちがしゃんとするというか、背筋が伸びるような気がする。

数年前、図書館に置いてあったファッション誌をなんとなく読んだ。ある女性アイドルグループの特集があり、数人のメンバーへ「あなたにとって衣装とは?」のような質問があった。どのアイドルも一様に「着ると気が引き締まる、戦闘服のようなもの」と答えていたことを覚えている。
自分にとってこの腕時計は「おまもり」であり、意識を外向けに切り替えるスイッチなのかもしれない。

しかし、ここまでの文章を改めて読み返すと、自分は本当にこの時計が気に入っているらしい。東京の大きな電屋で舞い上がっていた昔の自分を笑えないみたいだ。