私のお守りは年賀状と手紙。
送り主は、大好きな祖父母。 亡くなってもう数年以上経った。
二人との思い出は、写真を見ることで思い出すことができる。
だけど、少しずつ年月が経ってしまうと、声やどんな風に言葉をかけていたのかうろ覚えになってしまってきた。
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だけど、年賀状と手紙を見ると、祖父母がどんな風に孫の私に対して接してきたのかを感じることができる。
幼い頃の私宛なので、内容は子供に対してだが、それでも今の自分にも刺さる内容だなと苦笑いする。
「パパとママと妹を大事にしてね」 「頑張っているのか」などの言葉はあったが、自分だけではなく家族や周りを大切にしていくことを教えながらも、勉強など頑張っていることを認め、声をかけてくれた祖父母の気持ちを思うと今でも涙が流れる。
写真や動画はあったとしても文字が残っているのって、手紙などしかない。
書き残していたものがあると、祖父母が確かに存在していて私と関わってきたのか生きていた証なのである。
私にとって祖父母はお守りなのかもしれない。
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家族も友人も好きなものも、頑張っていくにも何かあったときに踏ん張れるものではあるが、辛い時も苦しい時も乗り越えられてきた時に頭によぎったのは祖父母である。
高校時代、人間関係が思うようにいかなくて女子が多い学校ということもあってグループ化されていて意地の悪いことをされて、しんどいと思ったことがあった。
せっかくの学生生活が暗黒になって楽しめなくなって、学校に行って授業を受けて帰ることで精一杯だった。
笑えなくなって、笑えることが当たり前だと思っていたため普通が幸せだと気付かされたが、当時はとっても苦しかった。
死にたくはないけど死にたい。一瞬だけ思ったことがあった。
そんな時に思いとどまっていたのは祖父の顔が浮かんだからだ。(当時は祖母は存命)。
死んだら会えるかもしれないと思うかもしれないが、きっと祖父は怒ると思うしあの世にいく時は胸を張っていろんなことを報告できるようにいきたいと思うようになった。
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いつかは笑えることを信じて学校に通い続けた私は卒業できたし、今でも仲の良い高校時代の友人がいる。
祖父母の存在はそれだけ大きい。
お守りは祖父母って書くべきかもしれない。
亡くなってしまった人のことって、どうしても自分の都合でいいように思ってしまう。先ほども書いたが、どんな風に言葉をかけていたのかを思い出す時には年賀状と手紙が私にとってお守りなのだ。
些細な内容だけど、祖父母が生きていた頃に私のことを可愛がってきたのかが伝わってくる。
それだけで私は頑張ろうと思えるのだ。
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祖父母のことを今でも大切にしているからこそ、祖父母にいつかいろんなことを報告できるように、これからも自分の夢などに向かって取り組んでいきたい。
愛情を持って接してきた二人の思いが文字として残っている年賀状と手紙は、私の宝であり、お守りなのである。
文字として残してあるものって、誰かの原動力になることを改めて実感した。
直筆だからこそ思いが伝わる。私も誰かの原動力になれるように、これからも言葉に書き残していきたい。