私は、中学高校時代を海外で過ごした。いわゆる帰国子女と呼ばれる人だ。これだけ書くと、一般的には羨ましがられる存在である。
確かに、語学力は格段に身に付いた。外国語ももちろんそうだが、現地の言語を学べば学ぶほど、日本語の複雑さ、美しさ、そして不便さに改めて気付き、唸らされる思いがした。
海外在住中に日本に一時帰国した際には、特に人を選ばずに話しかけても日本語が通じることにすら感動したと同時に、日本人であるというアイデンティティを強く再認識した。他にも、海外で不満に感じていた点が日本では問題ないことや、世界に誇れる文化や伝統を持つことに「我が国」を誇らしく思い、「やっぱり、ここが私がいるべき場所なんだな」とはっきりと感じた。
実際、日本ほど清潔で、便利で、ご飯が美味しくて、(個人的に)周囲の人のテンションについて行けて、(個人的に)音楽が心地良く感じる国は他にないかもしれない。
……ということに気付けただけなら、めでたしめでたしで話は終わる。しかし残念ながら、視野が広がるということは、必ずしも心地良い気付きや学びだけで終わるとは限らない。
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実は上記と同時に、海外在住中の数度の一時帰国と、高校卒業後の本帰国を通して、私の中に少しずつ違和感が蓄積していくことに気付かずにはいられなかった。
大半の人々が興味あることは、目の前の娯楽に、刹那的な快楽、そして今日明日食べるもの。数十年前まで経済大国と言われていたはずなのに、時間と共に経済的にも精神的にも貧しさが進んでいる。
高齢者を医療漬けにしているだけの、名ばかりの「長寿大国」。
海外では禁止されている添加物や農薬を使った食品が、平然と売られている。
国のトップには、国民を守る気なんてさらさら見られない。
さらに、「出る杭は打たれる」「島国根性」「右へ倣え主義」の国民性を如実に表しているかのように、このような表沙汰にされにくいがおかしな点について、なかなか声が上がることがない(あっても簡単にかき消されてしまう)。
それすらも大半の人々は何も疑問に思わず、外から見たら自分たちが身を置く環境がどれだけ異常であるかも知らず、「日本は良い国」と平和ボケしてしまっている。国が国なら、国民も国民で、まるで自分で自分の首を絞めているような状態である。
私が誇りに思っていた「我が国」の実態はこんなものだったのかと、肩を落としたくなった。愛する祖国だからこそ、みっともなく思える点がとても目に付くし、世界から置き去りにされるような情けない姿になっていくことに耐えられない。
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私自身が日本のために何かできているわけでもないが、今もネットを通じて海外の情報を入手するたびに、現状の日本と比較して失望が積み重なり、将来の日本を悲観してしまう。
そこで一瞬頭をよぎるのが、海外移住の選択肢である。数年間の海外生活の経験があると、「いざとなれば私には日本以外の選択肢もある」と思える。でも同時に、その経験があるからこそ、日本で生活する分には考えもしないような、海外生活における高いハードルも頭に浮かんできてしまう。
隣の芝生が青く見えるだけで、海外は海外で、日本とはまた異なるその国独自の問題を抱えていることも理解している。
それに、若干悔しいけれど、自分が住む国として、おそらく日本以上に馴染むことができる場所は他にないと思う。これまで幾度となく引越しを繰り返し、日本国内なら割とどこに住んでも「住めば都」と思える私でも、こと海外となると、その「私がいるべき場所はここではない」感は、年数と経験で解決されるものではない、と感じてしまう。
仮に年数を重ねてその土地に慣れたつもりでも、ふとした瞬間に日本人と日本語で話したくなるだろうし、日本の音楽が聴きたくなるだろうし、本物の日本食が食べたくなるだろう。
これは特定の1か国に限った話ではない。色々な国を短期間の旅行で訪れるたびに、「もしここに住むとなったら」と想像しても、結局は上記の結論に行き着くのである。
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幸か不幸か、私は日本人にしかなれないし、おそらく生涯日本と運命を共にすることになるだろう。
こんなことを憂えることになるくらいなら、最初から狭い島国の殻に頭も体も閉じこもったまま、何も知らない、何も考えない方が幸せだったのかもしれないと思うこともある。視野が広がった結果、結局殻にこもりたくなるのはなんとも皮肉な話である。
でも、嘆いていても、日本に思い入れもなければ不満もなかった、昔の私にはもう戻れない事実は変わらない。色々といびつで、目を背けたくなるくらい醜い現実を理解した上で、それでもなお運命を共にする覚悟を決める。
それもそれで、憎むことのできない祖国への1つの愛の形なのかも、と最近は考えている。