忘れられない一言がある。父からの一言だ。

あれは高校年生の2月ごろのことだった。いくつかの大学に合格していたものの、私の現役時代の大学受験は不完全燃焼で終わった。どうしても納得いくものでなく、プライドが高く傲慢だった私は、両親に浪人したいと申し出た。もう一年勉強して、第一志望校に今度こそ合格したいと。そのような重大な決定事項があ場合、我が家では徹底的に家族会議が開かれる。

その家族会議で、浪人という選択に両親は難色を示した。大学受験浪人は莫大なお金がかかる。それに見合うだけの努力を一年間コツコツとできるのか、それが理由だった。父はこう私に告げた。

「まよは、最近何か一つのことをコツコツと頑張って、何かを成し遂げたことってあったけ?」と。それは高校3年間のことをしたものだ。

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国際ジャーナリストになりたいという夢を追いかけて入学した、国際科のある高校。女子サッカー部に入部し毎日練習に明け暮れた。学校の様々な行事では代表を務めた。国際留学プログラムに合格し1か月の短期留学渡米した。子供向け国際NPO団体でボランティア体験をした。高校生新聞では記者として記事を作成した。都の弁論大会に挑戦し準優勝を勝ち取った。様々な講演会やセミナーに飛び入り参加した。東日本大震災の被災地に一人でボランティアに飛び入り参加したこともあった。

本当にいろいろなことに挑戦し、いろいろな経験をした。しかしどれも中途半端に終わってしまった感は否めない。熱しやすく冷めやすい移り気な3年間を送った私にとって、「一つのことをコツコツ頑張る」ことは苦手であり、それが大きなコンプレックスとなっていった。父は私のそんな欠点をよく理解していたのである。

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結局家族会議の結果、浪人することが決定した。精神疾患を発症し、自宅療養をはさんだ2年後の春、私は見事第一志望の国立大学に合格することができた。しかし、父の一言とその言葉にべったりと張り付いた私のコンプレックスは消えないままだった。コツコツと何かを頑張ることのできない私は、結局何も成し遂げられずに終わっていくのだ、というものだ。

そんなコンプレックスと正面から向き合うことになったのが、大学3年から4年にかけて熱中した卒論である。大学でドイツ語を専攻し、ナチズムの研究をしたいという理由で、学科内で最もハードであると噂のドイツ近現代史ゼミの扉を叩いた。1年目の3年生時には様々な文献を読み、自分のテーマを決める。ある文献を読んでいると、そこで私は運命的にあるナチスの法律と出会う。それが「ドイツ人の血と名誉を保護するための法律」であった。

1935年に施行されたこの法律は、「ドイツ人とユダヤ人を始めとする外国人間の結婚や恋愛や性交渉を禁止する」法律である。

一連の内容を読んでいて、私はふと疑問に思うことがあった。結婚はともかく、恋愛や性交渉のセクシュアリティってものすごくプライベートなことではないか。大きな権力である国家が法律を出したからといって、人々の超プライベートなセクシュアリティに介入して管理することなんて、果たして可能なのか、という疑問である。知りたい。果たして権力による人々のセクシュアリティへの管理・介入は可能/不可能なのか。

その疑問を担当教授にぶつけると、「良い問いを立てることができたね」と言ってにやりと笑った。頑張ってくださいね、と付け足して。

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そこから私の論文漬け生活が始まった。ナチス前のセクシュアリティへの権力の介入の歴史を知るために、キリスト教の文献を読みあさることもあれば、倫理の内面化を巡りミシェル・フーコーの論文に没頭することもあった。ナチスと書かれた本があれば片っ端から読んだ。

教授からは毎日英語文献とドイツ語文献がPDFで送られてきて、そのデータをコンビニでA3用紙にプリントアウトし、電子辞書片手にヒイヒイ言いながら読み進めていった。一つの章が終わるたび、「先生読み終わりました」と連絡すると、「はい次これね」と言って、またどーんとPDFが届く。そしてそのデータをコンビニでプリントアウト。また電子辞書片手に……といった無限ループが続いた。夏休みはその繰り返しでいつの間にか終わり、2か月の間に読んだドイツ語文献は700ページを超えていた。

結果41冊の文献やその他の資料をおさえた。調べていて分かったこと。「ドイツ人の血と名誉を保護するための法律」は非常に恣意的なものであった(同じ外国人でもスラヴ系・ユダヤ人との関係は厳しく処せられ、北欧系はむしろ歓迎された。またドイツ人男性は売春といった形で許容されたが、ドイツ人女性と外国人男性の関係は国へ対する裏切りだと、公開の場での剃髪など中世の見せしめ刑が復活した)。

そのため、ある程度の効力はあったものの、外国人と普段触れ合う人々の日常的な欲望・欲求を抑えることは不可能だったのだ。戦争は人々の移動を激しくする、ある意味で外国人との出会いの場だったのだ。

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卒論の最低文字数は2万字のところを、私は結果7万字を超えた。教授に提出し、それまでのご指導のお礼メールを送った。すると、「私は今年で大学教員8年目ですが、言うまでもなく今まで見た中で、もっとも優秀な卒論を、まよさんは書き上げてくれました。修論レベルで、10年に度あるかないかのレベルです」と返信があった。何度読み返しただろう。嬉しかった、飛び上がらんばかりに。

ずっとコツコツと頑張れない自分にコンプレックスを抱いていた。しかし、卒論で私は逃げずに頑張ることができた。成し遂げることができた。自信をつけるってこういうことなのか、と痛感することができた。

卒論という形で何か一つのことをコツコツと頑張ることができたという体験と自信。そして、教授からもらったねぎらいの言葉。社会人になった今でも、私を守ってくれるとびきりのお守りだ。