視界が明確に広がったそう感じたのは、東日本大震災の被災地に行ったときに自分の野次馬根性を自覚したときのことだった。

あれは高校2年生の頃だった。私はジャーナリストや新聞記者という小学生の頃からの夢を追いかけて、それはもう毎日必死に色々なことに挑戦していた。高校の委員会で校内紙を作成し、校外活動でエッセイコンクールに応募したり、都の高校生の主張コンクールに参加し準優勝したりした。見聞を広めようと、様々な講演会に行き勉強したり、国際交流プログラムで3週間渡米したりした。当時の私の目指すジャーナリスト像は、「声なき声を拾う拡声器のような役割」を果たす正義感に溢れたもの。その夢に向かってそれはもうがむしゃらだった。

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前年に起きた東日本大震災。日に日に増えていく被害者と行方不明者、繰り返し新聞やニュースで報道される津波でなぎ倒された痛ましい被災地の姿、不安ばかりが募っていく福島原発の報道。私だけでなくても、その当時報道の力を痛感した人は多かったのではないだろうか。あまりにも毎日続く悲惨なニュースに、無力感を感じるときもあったが、ふと私の心に芽生える気持ちがあった。それは、自分の目で被災地を実際に見てみたいというものだった。困っている人のために何かしたい。実際に自分の目でどんなことが起きているのか見てみたい。

そう思った私は、行動派だった。高校生で一人被災地に行くというのは、今から考えてもかなりリスキーだが、文化祭後の数日の振替休日を使って、被災地へ一人夜行バスに揺られて向かったのだった。

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バスで向かう間、津波の被害にあった地域に入ると、一見してそのことが分かった。なにもかもなぎ倒され、なぎはらわれていた。家という家、建物という建物がすべてなかった。何もない空き地にぺんぺん草だけが元気に風に揺れていた。震災が起きて9か月は経っていたのに、がれきの撤去はまったく進んでおらず、船が丘の上に横たわっていた。ニュースで見たとおり、いやニュースで見た以上の迫力があった。衝撃だった。メモをとろうと取材ノートを用意していたのに、言葉が頭につっかえて全く筆は進まなかった。私は知ったのだ。想像力に限界があるということを。

衝撃を受けている私を連れて、バスはボランティアセンターに着いた。

私の今回のボランティアは、カメラマンの助っ人。震災で写真を失った人は多い。被災者に家族写真などの写真を新しくプロのカメラマンに撮ってもらうというプロジェクトだった。と言っても技術的なものでなく、場が和むよう写真に写りに来た人と談笑したり、お茶を出したりするものだった。

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プロジェクトは盛況で、3日間のボランティア期間のうち、多くの人が訪れた。久しぶりに化粧したのよと恥ずかし気なおばあちゃんはおじいちゃんとツーショット。家族で写りに来た人もいれば、お見合い写真の代わりに可愛く写してね!というお姉さんもいた。なぜか私のことをすごく気に入ってくれた男の子と、写真撮影そっちのけで歌を熱唱したりもした。

プロジェクトはなかなかの注目を集めているのか、テレビ撮影が来た。地方局のレポーターとカメラマン、そしてディレクターの3人組。これがテレビの現場なのかと、ジャーナリストを目指す私は興味津々で覗いていた。そしてテレビクルーとレポーターが、写真撮影に来ていたおばあさんにマイクを向けたときのことだった。おばあさんは「映すな!やめてくれ!」と声を荒げたのだ。

ひきつった顔のテレビクルーがなんとか撮影を終えて帰っていき、おばあさんのもとへ大丈夫ですか、と声をかけると、「あいつら震災の避難所でも、ぶしつけにカメラとマイク向けやがって。人の気持ち考えずにずけずけと踏み込んできて、まったくもう」と怒り始めたのだ。 

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その言葉に私は衝撃を受けた。ジャーナリストを目指すなかで、いつの間にか報道機関の人を神のように思うようになっていた。報道は民主主義を守る上で大切な良心であると、強すぎる正義感で絶対視していた。困っている人を助ける上で、報道が問題提起として社会に果たす役割はとてつもなく大きいものだと。

でもそれは狭い考えだった。映す側、書く側、取り上げる側の権力性に私は無自覚だったのだ。いくら報道が必要でも、目の前の困っている人の心情を無視して踏み込んで、更に言えば踏みにじって、それが良い記事だと言えるのだろうか。英語で著者を表す「Author」という言葉がある。語源は「Authority」、意味は「権力」である。報道に立つ側の人間は、権力を持つ。そのことをもっと意識せねばならない。自覚せねばならない。もっと謙虚にならなければいけないのだ。 

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そしてさらに、私は被災地に来た自分自身の野次馬性を痛感した。ジャーナリストを目指すからと言った。困っている人を助けたいからと言った。被災地の現状を見てみたいからと言った。しかし果たして本当に、この大きく報道されている被災地をナマで見てみたい!という野次馬根性と無縁だったろうか?「私被災地実際にってきたから」というエピソードが欲しいという下卑た好奇心と無縁だったろうか?私は急に恥ずかしくなった。帰り道のバスでも取材ノートは白紙のままだった。 

あれから10年が経った。私は結局ジャーナリストにはならず、なれず、金融機関の一社会人として働いている。能登半島地震で当時のことを振り返る。少しでも被災地のためにと動いた高校2年生の私は、完璧な傍観者である今の私より立派であるかもしれない。それでも、大すぎる正義は時に危険だということを自戒とともに思い出す。あれは頭でっかちな理想論の私の視野を、確実に広げた、いや壊した出来事だった。

末尾となりまが、能登半島地震で被害にあわれた方に心よりお見舞申し上げます。