誰もいない朝。実験室で一緒に勉強した彼女と、匿名のチョコを入れた

薄暗い3階の物理実験室。
「おはよう〜」
「おはよう〜もう来てたんだ」
「うん、電車一本早いのに乗れたんだ」
「そっか〜」
今日は私の方が遅かったか。 なんて、自転車を漕いでほてった熱を覚ますべく窓を開ける。
「さむ!」
「え、涼しいよ?」
「それは睡蓮が自転車漕いで来たからでしょ」
「まあね、あ〜涼しい」
上着を着て凍える彼女をけらけらと笑いながら風にあたる。
「あ、もうすぐだよ」
「本当だ」
窓側によってきた彼女のためにドアを閉めようとする。
「いいよ、閉めなくて」
「いいの?」
「うん、寒いけど冬の香りって好きなんだよね」
「私も」
やがて建物の隙間からオレンジ色の光が私たちの瞳を突き抜ける。
「綺麗だね」
「うん、毎日これ見るために来てる」
「間違いない、あとは勉強とお喋りしにね」
「そうね笑」
ひとしきり朝陽を堪能した私たちは、窓を閉め好きな場所へと適当に座る。
合図も何も無く、1時間目の授業が始まるまでの間、私たちは静かに勉強を始める。
高校3年の冬、私の朝の日課は彼女と一緒に朝陽を見ることだった。
私たちの関係はそんな特別な関係でもなく、たくさんいる友人の1人。
あえて関係に名前をつけるならば、毎日朝から一緒に勉強する友人、おそらくそんなところだろう。
物理専攻で、理解はできるのに問題が解けないという謎生徒だった私は、物理実験室に通い詰め先生に問題の解き方を教わる日々を過ごしていた。
元々塾に通っていたわけでもなかったため、いつの間にか教えてもらう時以外も実験室へ赴き、勉強するルーティーンが出来上がっていた。
「あれ、こんなところで勉強してるの?」
彼女が実験室にいる私を認識したのは偶然だった。
生物専攻だった彼女がたまたま通りかかったその日、私はいつもの通り実験室で1人勉強していた。彼女とは元々音楽に共通の趣味があり友人ではあったが、毎日一緒にいるような仲ではなくすれ違ったら挨拶するような、その位の関係だった。
「そうそう。ここ人がなかなか来なくて静かでいいんだよね」
「へえ〜そうなんだ」
彼女はそう言ってそのまま手を振り去っていった。
次の日、実験室へ向かう廊下の途中、部屋から微かに光が漏れているのが見えた。
「あ、おはよう。今日から私もここで勉強しようと思って」
扉を開けるとこちらをみて微笑む彼女がいた。
最初は自分の場所を取られた気がしてなんだか落ち着かない気持ちだったが、彼女は私に不用意に話すこともなく、黙々と勉強をした。
その空気に私もそれ以上心情的な雑音を感じることはなかった。
勉強して、疲れたら少しお喋りして、また勉強して。
いつしか彼女がいることが当たり前になっていた。
「ねえ、バレンタインあげるの?」
「う〜ん。迷ってる。あなたはあげるんでしょ。脈アリだし」
「そうだねえ、でも迷うよね。こんな時期だしさ」
「それは間違いない。二次の直前だもんね」
センター試験も終わり同じクラスの人間ですら会う機会も少なくなっていた中、高校最後のバレンタインを楽しみたいという話を彼女とは幾度となくしていた。
「じゃあさ、匿名で下駄箱に入れない?」
「匿名で下駄箱いいね。私たちも無駄に結果を気にせずに済むし」
「流石に直近で二つも結果聞くのは心臓に悪いよね」
「それは本当にそう」
「じゃあ、いつ入れにいく?」
そこから話は早く、私たちはバレンタイン当日までに各々チョコを用意し、いつも通り朝誰もいない時間に実験室ではなく下駄箱に集合した。
ガチャ、と、金属の下駄箱が開く音が世界に響く。
「睡蓮入れた?」
「入れた。そっちは?」
「入れた」
その瞬間私たちは声にもならない声をあげながら実験室へと一直線に走った。その日、実験室の窓は朝陽が登った後も開けっぱなしだった。
匿名だったこともありお互いの相手から返事が来ることはなかった。
そして無事2人とも大学が決まり、実験室で会うことも無くなった。
チョコを渡した彼の名前は思い出せないけれど、彼女と過ごした日々は鮮明に思い出すことができる。
その意味を考えようとしてスマホの電源をオフにする。
指輪を写した彼女の投稿に、久しぶりに思い出した甘酸っぱい日々を噛み締めた。
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