小学校四年生で辞めるまで、一日の内でいちばん憂鬱な時間はピアノの練習だった。習い始めたのは三歳のとき。私が習いたいと言ったらしいが、覚えていない。
毎日毎日、不機嫌な母に「ここが弾けていない」「音が間違っている」と怒鳴られ、叩かれ、今なら児童相談所に通報されそうな言葉でなじられながら、練習する。レッスンに行けば同じ門下の生徒と比べられ、めったにほめられずにダメ出しばかりされ、家であんなに練習したのにな、とブルーになる。

辞めても捨てられない音楽への未練と恐怖。子どもの習い事は教育?

記憶にある限り、私はピアノが嫌いで、ピアノを習いたいと言った(らしい)ことを後悔していた。これ以上続けても趣味にしかならないと諦めたのか、母がピアノ教室を退会するのを許してくれるまでずっと、親子バトルは続いた。

辞めた後は妙にすっきりした。けれど今でも、音楽への未練と恐怖は捨てられない。
中学高校と、音楽関係のクラブに入りたいな、と思ったものの、本入部をするとなると足がすくんで結局音楽とは関係のないところに入った。ピアノじゃなくてもいいからなにかしてみたいと思うのに、また怒られるんじゃないかと思うと回れ右をしてしまうのだ、

今、あの頃の母に会えたら、こう言いたい。
「音楽は音を楽しむもので、音を学ぶものではない」
子供の習い事は、難しい。大人の習い事は完全な趣味で、余暇を豊かにするものだけれど、子供の習い事は「教育」だから。素質を最大限伸ばしてやりたいとか、あわよくばプロにしたいとか、そういう欲から離れられない。

「這えば立て立てば歩めの親心」とはよく言ったもので、「上達はゆっくりでいいから、まずは楽しくやろうよ」なんて余裕は、私の母にも先生にもなかった。
ある程度年を取った今なら母の気持ちもわかるし、そういう意味ではちゃんと育ててくれたんだと思う。そのおかげで楽譜は読めるし、音感もある程度あるし、リズムも取れるようになった。母を責めるつもりはない。

あの頃の母に会えたなら、ピアノの練習は楽しむ時間を提案したい

でも、スパルタ音楽教育のせいで、母は私が嫌いなんだと信じ込んでいたし(誤解が解けるまで五年ほどかかった)、音楽に恐怖を感じるようになってしまった。
あれだけ労力をかけてくれたのに、母は報われないな、と多少客観的にみられるようになった今は思う。

だから今、あの頃の母に会えたなら、「ピアノの練習は、音を親子で楽しむ時間にしようよ」と提案したい。
ピアノを習っている子供全員がピアニストを目指すわけではない。そりゃ、親が何気なくかけていたCDをさらっとピアノで弾けちゃう三歳児とか、小学生の時点で場を圧倒するような演奏ができるなら、親が躍起になるのも仕方がないだろうが、私はごく普通の(というよりむしろちょっと遅めの)進捗スピードで、教則本に載っている曲を弾いているような平凡な子供だったのだ。
だったら、お互い不機嫌になって練習するよりも、思いっきり楽しんだ方がよかったんじゃないかな、と思う。

やってみたい楽器の体験で、先生は「楽しめばいい」と言った

ちなみに「音楽は音を楽しむもので、音を学ぶものではない」と私に言ってくれたのは、大人向けの楽器レッスンをしている先生だ。
どうしてもやってみたい楽器があって、勇気を出して先日体験レッスンを受けてみたのだが、拍子抜けした。その先生がたまたま優しかったのか、大人向けレッスンは緩く楽しくやるのが主流なのか、ちょっと音を間違えようが、リズムがとれなかろうが、「よくできましたねえ」と褒めてもらえる。
「うまく弾こうとしすぎなくていいですよ、楽しんだらいいんです」と言われて、この先生は神様か、と思った。

今、ちょっとずつ音楽が楽しいな、と思えてきている。自分の満足いくまで曲を練習したら、それでおしまい。弾きたい曲が新しくできたら、今取り組んでいるものが未完成でも投げ出して進む。余暇なのだから、好きなように過ごせばいい。そう思うと、音楽への恐怖も薄れてきた。

まだ、母の前でその楽器を演奏することには抵抗がある。けれどいつか、母と「音を楽しむ」音楽ができればいいと思っている。