SNSを開くと私のタイムラインは今日も「見た目」に関する投稿で溢れている。K-popアイドルのビジュアルやスタイルを讃えるもの、整形にどこまで課金したかというビフォーアフターを載せているもの、ダイエットが1番の整形なのだと垢抜けの方法をまとめているもの。

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それらを見ると毎回「みんな綺麗だな」と思うけれど、それと同時に「私も頑張らないとなぁ」とため息が出てしまう。私自身痩せたいとは思っているけれど、どんなに頑張ってもどうせこの人たちみたいに綺麗にはなれないしなと、少し体重が減っても先が見えずに挫折するというのをもう何度も繰り返している。

世間の美の基準の高さがSNSを開くたびに更新されていくような気がして、もはやダイエットのモチベーションは周りと自分を比べたときの焦りがほとんどを占めていた。SNSでシェアされる大多数の意見だけが、美のゴールであり正解なのだと思っていた。

けれどそんな私の価値観を変える出会いがあった。昨年東京で開催されていた「ルーヴル美術館展 愛を描く」という絵画展に足を運んだとき、私の中で美しいと思う人の範囲が広がったのだ。開催されることを知ったときは「ロマンチックそう」という単純な理由だけで入場券を購入したのだが、こんなにも私の視界を広げてくれるとは思ってもみなかった。

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当日、会場である新国立美術館にはルーヴル美術館から集められた珠玉の名画が数多く展示されていた。それはどれも「愛」について描かれているもので、その絵画を通して西洋社会の背景や様々な愛の物語を知ることができた。その一方で私は、会場の奥へと足を踏み入れていくにつれて、描かれている女性たちの美しさに魅了されている自分がいることに気がついた。

甘美な姿が描かれたヴィーナスや、騎士を誘惑する女性たち、ソファーに横たわる若い美女など、描かれている女性のほとんどが何も着ていないもしくは薄い布を纏っているだけ。そしてその全員がふくよかな体型をしている。

華奢なスタイルに憧れていたはずなのに、私はその姿に不思議と目を奪われ、うっとりするほどの美しさを感じていた。この日の朝だって、SNSで流れてくる韓国アイドルのスタイルこそが、この世の美の頂点だと当たり前のように思っていたのに。

ふっくらとした二の腕や太もも、豊満なお腹に丸みを帯びて柔らかそうなおしり。描かれている女性はその肉厚で豊かな体型を1mmも恥ずかしいとは思っていないようだった。そこではそのスタイルこそが、究極の美のように感じられた。

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その日の夜、私は浴槽の鏡で自分の体を見つめてみた。そこにはいつもと変わらないふっくらとした私の姿が写っていた。二の腕も太ももも肉付きが良く、おしりもお腹もぽってりとしている。

ただ一つ違うことは、それをみても前よりマイナスな気持ちにならなくなったということ。もし私の裸がこのまま絵画として描かれたとしても、美術館に飾られた彼女たちとなんの違和感もなく馴染めそうだし、豊かさの象徴だと思えば私のこの体だって美しいのかもしれないと思えた。

絵画の中の世界なら、私も体を隠すことなく道ゆく人を誘惑できてしまうような気がした。鏡の前でそんな気持ちになったのは初めてだった。気がつけば、そこには前の日とは何も変わっていない自分の体を肯定的に見つめる私がいた。それから私は自分の体のことを、絵画になぞらえ「ヴィーナスボディ」とこっそり呼んでいる。

これがSNS上でトレンドワードに上がることはないと思うし、たくさんの人に共感されシェアされることもないだろう。でもふくよかな女性の美しさに気がついた私は、自分で自分の体にいいねを押したい。痩せることだけをダイエットの目標にしなくても良いのだ。

自分が思う理想のスタイルに近づけるよう、それぞれに合った努力をすればいい。美しさに正解はないのだから。愛について描かれた絵画をみて、私と私の体の間にも、セルフラブというかたちで愛が生まれたような気がする。