「勉強できるけど、でもお前ブスじゃん」
あれは小学生の頃だった。私はクラスの漢字王コンテストでまたも優勝した。小テストを何度も行い、総得点が最も高い人が表彰状とプレゼントをもらうコンテストである。プレゼントに興味はない。ただひたすら「漢字王」という栄誉を取るため、毎日漢字勉強に勤しんだ結果のことだった。得意そうな私が鼻についたのだろう。男友達に言われた言葉が冒頭の発言だった。
小学校を卒業して、中学校で正式に勉強が得意なやつになっても、そのような言葉は言われ続けた。
勉強はできる、スポーツもできる。
「でもあいつブスじゃん」「でもあいつデブじゃん」「でもあいつ彼氏いないじゃん」「でもあいつとは付き合いたくねえじゃん」「でもあいつじゃ勃たねえじゃん」「でもあいつなんかだせえじゃん」
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男たちからのその一言で、勉強だけができる、スポーツだけができる私は否定されていった。女の子は勉強の虫や本の虫だけでは認められないことを知った。何よりも前提に、男たちから認められる、美しさがあること。可愛らしさがあること。愛らしさがあること。女の子は、本の「蝶」でなければ認められないことを痛感した。
そのような小中時代を過ごしたあと、高校生になるころには、「私は価値のないブス」という男たちの価値観を、私はいつの間にか内面化した。私が私自身にそのような声をかけるようになっていた。鏡を覗き込むたびに、一重で重めな瞼の小さな私の目が、私を見つめ返した。彼氏ができない、好きな人に愛されない理由はこれだと、それが答えだった。
ギャルメイクを覚えた。主食は0キロカロリーゼリーと栄養補助食品の拒食症一歩手前のダイエットを行い、1か月で8キロ痩せた。生理は2年半止まった。必死だった。それでも、誰からも愛されることはなかった。「少しは可愛くなれたのに、なんで誰も愛してくれないの」と余計辛くなった。必死なブスなんて余裕がなくて、怖い。もうがんじがらめだった。
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そんなとき、中村うさぎさんの「私という病」を読み、ある事件を知った。「東電OL殺人事件」だ。1997年に起きた殺人事件である。なぜこの事件が有名かというと、被害者となった女性は慶応大学卒業後東京電力に初の女性総合職として入社したエリートだったが、退勤後は路上で売春を行う売春婦であった、という二面性からだ。
社会的に認められたエリート女性で経済的にも必要ないのに、なぜ身体を売らなければならなかったのか。事件が起きた当時、非常に議論になったが、少なくない女性たちが「東電OLは私だ」と共感を示したという。
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そして私も分かる気がする。彼女が求めたもの、それは売春の対価のお金ではない。「自分に性的価値や、男たちから求められる」といった体感であり、承認欲求なのだろう。彼女は「勉強もできた」し、「仕事もできた」、経済的にも社会的にも「成功して認められている」。でもそれだけでは足りない欠乏感を抱えて生きていた。私が浴びせられた「でもお前ブスじゃん」が再び耳に蘇る。東電OLも「勉強はできてもお前ブスじゃん」「仕事もできるけどお前ブスじゃん」と、男たちから女性から、そして何より内面化した自分自身から言葉を浴びせられ続けたのではないか。
人から認められないと自分を認められない。男たちから愛されないと自分を愛せない。狭い範囲での自己肯定感である。今でこそパートナーに恵まれ、内面化された「でもブスじゃん」という言葉は出て来ない。しかし、事件から30年経った今でも、依然古い時代の話だよねと過去にならない。私にとって東電OLは、癒されなかった私の「もしも」なのである。