辛いニュースとの向き合い方は、時にとても難しい。
10月7日は、私の誕生日だった。
健康に26歳を迎えられたことへの喜びを噛み締めるより先に、テレビのニュースでパレスチナとイスラエルの衝突が始まったことを知った。
模型のように一瞬で崩壊する建物や、粉塵まみれで裸足のまま逃げ出す女性や子供。高画質で鮮明に映し出されているけれど、まるでモノクロの戦争映画を見ているような、この瞬間に同じ惑星で起きていると感じられない奇妙な感覚を覚えた。

その日は綺麗な秋晴れで、トレーナー1枚で外で散歩ができるような、1年で一番過ごしやすいような気温だった。
私の目に入る今日の世界はこんなにも美しくて優しいのに、飛行機で半日もかからず辿り着ける場所で、孤独と絶望を感じている人たちがいることの現実味のなさに、今更ながら言いようのない負い目を感じた。

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友達からのメッセージに返信したり、家族と何気ない会話をしている時も、心はどこか遠くにいってしまったような空虚があり、そしてそれは漠然とした不安と、無力感に変わった。

数日、1週間が経っても戦火は収まるどころか激しさを増した。
長い歴史が複雑に絡み合い、2つの集団や宗教の問題をゆうに超えた国際問題を前に、報道で情報を得ることで、知らないことへの罪悪感を減らしているとしか感じられない瞬間もあった。
それでも1か月も過ぎると、報道の量は目に見えて減っていき、大規模な爆撃や殺戮が起きた時に、その概要と被害の概要を伝えるだけ。
その前からずっと、そしてこれからも現地で暮らすしかない人々の苦しみは深く、長く続いていくのに。そんなことを思った。

心の中でモヤモヤをくゆらせている私自身、日々の仕事や人間関係、取るに足らない生活のあれこれに忙殺されると、身の回りの生活の外に、余裕を持つことができない日がある。
気付いたら昨年心を痛めていた事件のことは、心の隅っこに行ってしまっているし、そう思っていると、また新しいニュースに一喜一憂してしまう。
ニュースをきっかけに興味をもったテーマについて買った本は、本棚で積読となってしまっていることもある。

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それでも私は知ることを、理解しようとすることを諦めたくない。
報道やニュースを通じて知ったことを、家族や友達に伝えたいし、自分の手の届く範囲で、少しでも行動を起こしたい。そして、辛い出来事を通して知った国や土地、長い歴史の中には、ハっとする程美しい自然や文化、愛おしい日常の一瞬があることを、忘れないでいたい。

有象無象の情報があふれる現代社会で、希望が見えない辛いニュースを前に、私たちは時に、強い無力感や絶望を感じるかもしれない。時に、直接的な支援活動や、具体的なアクションに結びつかない時だって、どうか少しでも穏やかに眠れる夜がくるように、と願いたい。

そして、そんな「祈り」にも意味があると信じて、自分の手の届く範囲で、できることを無理なくやっていきたい。そして、今何が起こっているのかをしっかり理解できるように、その時々の適切な距離感を保って、日々のニュースや報道と向き合っていきたいと思う。