芥川賞作家・綿矢りささんの小説『ひらいて』に、こんな一節がある。

『朝は、ダイニングテーブルでトーストを食べながら、かならずニュース番組を見る。番組のアナウンサーたちは、日本じゅうからかき集めてきた異常犯罪を息せき切って、うれしげに報道する。コメンテーターは一方的に意見を述べ、わずか十数秒で審判を下す。

一人の青年が民家に侵入し、面識のないおばあさんを殺し、動機は「人を殺してみたかった」。そんな事件に、コメンテーターたちは信じられないと身をふるわせ、眉をひそめて、この国はどんどんおかしくなりつつあると首をふる。死語になりつつある“嘆かわしい”という言葉を、芝居がかったジェスチュアで表現してくれる。

お手軽な、井戸端裁判だ。でも効果は絶大。嘘か本当か分からない情報でも、確実に一人の人間の評価を上げ下げできる。続報はあるようでまったくない、その場かぎりの採点システム。はい、では次のニュース。

私はたくさんの情報が身体を流れてゆく感覚が好きだ。それらは私になんの影響も与えずに透過してゆくけれど、確実に私をよごしてくれる。毎日のニュースは、その日浴びなければいけない外での喧騒に耐えるための、免疫をつけてくれる』。

朝からセンセーショナルなニュースを見ることで身体がよごれてしまうというが、この前雑誌を見ていたら、うつ傾向の人や繊細さん(HSP)は朝から陰惨なニュースを見ない方がいいと言っていた。

現に私の友人で、コロナ禍、ニュースが辛くて見られず、代わりにお料理番組や手芸特集なら見られたという人がいた。あの時期は私も小説ばかり読んでいた。それを現実逃避と呼ぶことはたやすいが、ときには逃避もしなければこの辛い現実はやり過ごせない。

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直木賞作家・江國香織さんのエッセイに『物語のなかとそと』がある。著者はニュースにほとんどタッチせず、一日の大半は物語を読んだり書いたりと、物語の中で生きているようで、そこが自分の弱点でもあるとラジオで語っていた。

若い頃はそんな暮らしぶりに憧れたが、彼女は芸術家で、職業上の要請から、物語の世界により深く潜るためにそうしている面もあると今は分かる。

ニュースに無関心ではいけないと、学生の頃は先生によく言われた。

でも、私は正直に言えば、大人になってもニュースが苦手である。東日本大震災のときも他の人に比べたらあまり見られなかった。それは、凄惨な映像を見るのが辛いということ以上に、そのニュースを知っても、自分は被災地に助けに行けるわけでも、物資の支援ができるわけでもないと、己の無力さを突き付けられるからだ。

もうひとつは、綿矢さんが小説で指摘しているように、日本のニュースは犯罪をワイドショーのように謂れのない物語に仕立てて扇動的に言いすぎることだ。

フランス在住の友人が言うには、かの国の報道の在り方は全く違うという。例えば殺人犯が逃走中の場合、二次被害を防ぐ意味でも、殺人の起こった場所や犯人の特徴などを詳しく報道する。ここまでは日本と同じだが、ひとたび犯人が捕まったら、もう必要以上にそのニュースは流さない。

それは、犯人の個人情報保護という面と、同じような手口の模倣犯を増やさないためという理由もあるのではないか。

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ニュースにもっと良い話題が増えるといい。どこかの動物園で赤ちゃんが生まれたとか、銀行で若い行員が、オレオレ詐欺に騙されそうになったお年寄りを助けたとか、こういうニュースを聞くとほっとする。

いくらニュースが苦手といっても、この社会に生きる一人として知っておきたいという思いはある。この前の能登半島地震でも、それを知ったからといって私は具体的に何も出来なかった。

けれど、東日本大震災のときと違ったのは、私が能登半島を何度か観光で訪ねたことがある点だった。牡蛎の収穫時に大打撃を受けたが、牡蛎を買って応援するという方法があることをニュースで知った。牡蛎は大好物だし、自分にも無理なく支援できる。

そして、たとえ出来ることが少なくても、そのことに心を寄せ続けること、考え続けることをやめたくない。何に対しても、自分とは関係ないと思ってしまったらそこで終わりだ。