このテーマを見た時、私にぴったりだと思った。
そして私はこのテーマで書きたいし、書かなくてはいけないと思った。
1000人に1人の自分であることを時に孤独に、時に誇らしく、時に寂しく、それでもやっぱり私は私にしかなれないことを痛感する者として。

必要書類で性別の「男・女」を選ばなければいけない時、私は女と一緒に間の点も囲む。
私は私として生きていたいという、せめてもの反抗として、意味なんかひとつもないけれどやってしまう。

最近は「不回答」という3つ目の選択肢を選べる場合も増えてきたけれど、まだまだ男か女かの2択を迫られることは多い。

◎          ◎

もちろん健康診断や身体のつくりを見なければいけない時は、戸籍上の性別を選ばなければいけないのもわかる。
でも、それでも私は小さな小さな反抗を続けてしまう。
そうでないと、私がそうでありたいと願う私では無くなってしまう気がするから。

もしもこの世界が1人1人好きに性別が選べる世界なら、私はいつも性別に「オタク」があればいいのにと思ってしまう。
男でも女でもなく、性別オタクになりたい。
誰かに言ったら笑われそうだけど真剣にそう思っている。
自分のことを全く知らない他人を「推し」として一方的に愛して熱狂的に追いかけて、推しの好きなところを原石から切り出すように文章に書き起こして、きらきらと輝くそれを宝箱にしまっている自分が誰よりも自分らしいと感じるからだ。
思えば物心ついた時からオタクだった、というよりも、自我が芽生えたのはオタクになってからだったと思う。

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推し、自担、ご贔屓、色んな呼び方はあれど、プロフィール交換が流行っていた頃に自分のことを知らない他人のプロフィールを隅から隅まで眺め、好きな髪型にしてみたり、私が嫌いなものを推しが好きだったりすると落ち込んだり、あらゆる感情の芽生えを私は推しからもらった。
そして、これまで推してきた何人かのアイドル達に生かされてきたし、同時に誰かを愛することは自分を愛することだと教えてもらった。

不思議なことに、いつの間にか推しを追いかける過程は段々と自分自身がどういう人間なのかを知る過程に変わっていって、それは例えば転職の面接や恋愛や対人関係などあらゆる場面で、役に立った。

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私は人は3回生まれると思っていて、「この世に誕生した時、体が生まれる。愛を知った時、心が生まれる。自分を理解した時、魂が生まれる」という風に。
この2つ目と3つ目の心と魂の生みの親が、推しでありオタ活だった。
だからこそ、1000人に1人だとしても、私の性別は男でも女でもなく「オタク」だと言いたい。
例えどこにも記入できなくても理解されなくても、性別オタクとして生きていきたい。

いや本当は性別という概念自体無くなって、もしくはもっと柔軟にあるいは幅が広くなって、身体的特徴の区別はあっても心だけは誰でも自由に選べることが当たり前になってほしい。

そう願いながら、1000人に1人の私は点と共に丸を囲む。