『さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ』
レイモンド・チャンドラー作『ロング・グッドバイ(長いお別れ)』の中の有名な一節です。
訳者によって微妙な違いがあるそうですが、私が読んだのは上記の訳でした。

私はこのセリフを『自分の一部が死ぬ=関係がなくなるのはそれほどの悲しみ』と解釈し、そりゃ死ぬほど苦しいんだからいつまで経っても終わらせられない関係もあるよな、逆に言えば、「さよなら」と言ってそれまでの私を殺して、新しく生まれ変わった気持ちになれるのではないか、よし、いざ終わらせるなら「さよなら」とキッチリ言おう、と間も無くセフレが来る私の家で密かに決心していました。

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前回のセフレに懲りた事実を学習したらしい私の心は、新しいセフレに対して全く動かず、凪の状態を保っていました。夜ご飯の時間に呼び出して、飲んで、一緒に寝て、翌日の朝に送り出す。進展もなければ後退もない都合のいい関係に、私は満足していました。
いえ、満足していると思い込んでいました。

彼を送り出した後は、即座に玄関の鍵を閉め、ドアストッパーをかけました。シーツ、枕カバー、タオルケット、パジャマなど、洗濯機を回しました。洗濯機を回しながら、彼が残したアイスをかじり、昨夜彼が家にいたという痕跡を片端から消して回っていた日曜日の朝。
そう、私はちっとも学習していませんでした。
唯一の成長は、心の動揺を出さなくなった点でしょうか。
いつか限界が来る、と理解できるようになったところも成長点として挙げていいでしょう。
実行できるかは置いておいて。

彼と日中も会う約束をするようになり、ついには泊まりがけの遠出をするようになり、私は終わらせるタイミングをるようになりました。曖昧な関係を続ける気はさらさらなく、かと言って体から始めてくる男を信用できるはずもなく、ではいつ終わりにするのか、と考えてばかりました。

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しかし私はいつまでも『私』を殺すことができずにいました。彼が家を出る時、彼はいつも「じゃあまた」と言います。私はそれにうんともすんとも言わないでいるのが精一杯でした。
いつになったら「さよなら」と言うのか。
いつになったらこの関係を終わりにするのか。
いつになったら私を殺せるのか。

転機は訪れました。就職に伴い、彼が引っ越すことになったのです。それまでは徒歩数分のところに住んでいたのですが、今後は電車を乗り継いで二時間ほどの距離になります。
今日だ。私は確信しました。

「じゃあまた」玄関先で靴を履き終えた彼は私にいつも通りの言葉をかけました。いつもなら、何も言わずに手を振るだけの私です。でも、今日は言わなければ。これ以上のチャンスはない。

今日、これまでの私は少しだけ、彼と過ごした時間の分だけ死ぬんだ。
言え。言え。言え。

「じゃあね」
言えませんでした。
「おう」
と私に背を向けて彼は出て行きました。

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閉まるドアを見て、私の体は反射的に動き、素早く鍵を閉め、ドアストッパーをかけました。いつもなら、この後には洗濯が待っています。でも、私は玄関から動けませんでした。
狭い玄関に座り込んで、ぼんやりと鉄のドアを見ていると、私の口は勝手に開きました。
「さよなら」

あぁ、なるほど。これは確かに『少しだけ死ぬこと』だ。少しだけ、私の何かが今死んだ。
涙は出ませんでした。でも、自分の中の何かが無くなった感覚がしました。

結局「さよなら」は言えず、彼との本当の「さよなら」はそれから二ヶ月先になるのですが、この時に感じた気持ちは、今でも忘れることができないでいます。