口元にあるほくろが、子供の頃からコンプレックスだった。高校を卒業して、大学生になるまでに取ると決めていた。私の行く予定の大学は、同じ高校から行く人が少なく、過去の自分を知る人はいない。これで晴れて大学デビューできると考えていた。美容皮膚科の目星をつけ、これまで貯めたお年玉を資金に準備した。
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悲壮な覚悟を決めていたわりに、あっけないほど簡単にほくろは取れた。痛いのは最初の麻酔注射だけで、その後は皮膚の表面がえぐられる感覚だけがあった。術後、鏡を見ると、ほくろのあった部分は、ちょうどかさぶたを取ったあとの皮膚のように、赤くへこんでいた。
その部分にかさぶたが張り、やがて自然に剥がれまで、軟膏を塗って専用の絆創膏をしておくように言われた。その期間は2週間ほどです、と言われ、私は思わず問い返した。「えっ。2週間もかかるんですか」と。これは明らかに私の不勉強であり、誤算だった。入学式はあと1週間後に迫っていたのである。
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当日はマスクをつけて臨んだ。コロナ禍でマスクをつけているあいだに整形、というのが流行ったようだが、私はコロナが流行るより前から先取りしていたことになる。花粉症とでもいえば、この時期マスクをつけていても不自然には思われないだろうと思った。しかし、念願の大学入学が叶い、皆が白い歯をこぼして笑うなか、マスク姿の私は明らかに浮いていた。
大学に限らず、新しい組織に入ったときは、最初が肝心だ。初めてのオリエンテーション、初めての会食。こういうときの第一印象ですべてが決まってしまう。オリエンテーションのときはマスク姿でも言い訳ができた。「花粉症なんで」と言っておけば済む。
困ったのは、入学と同時に生協の主催で行われた新入生の立食パーティである。マスクを外さないわけにはいかない。けれど、マスクを外せば口元の目立つ位置に絆創膏が見えてしまう。「えっ、あの子、花粉症でマスクしてたんじゃなかったの? なんだ、あの絆創膏隠すための口実だったんだ」と思われたら恥ずかしい。口元をちょっと怪我したと言おうか? けれど、何だがそれも白々しい。
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芥川龍之介の「鼻」という小説がある。鼻が長いことを気に病んでいた主人公は、手術を受けて鼻を短くする。ところが、短くなった鼻を見た周りの人たちは以前にも増して嘲笑うようになった。
主人公は初め、自分の顔が劇的に変化したから笑われているのだと思っていた。しかし、笑いは一向に止む気配がない。なぜ笑われているのかというのには色々な解釈ができると思うが、私はこう思う。
「あいつ、鼻が長いのをよっぽど気にしてたんだなぁ」という笑いである。鼻が長いことよりも、それをコンプレックスに思っている自意識を他人に気付かれる方がずっと恥ずかしい、というような。ほくろがあるのを気にして、それを除去したという事実を、私は絶対知られたくなかった。
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私は当日、絆創膏を外し、まだ治りきっていない傷口にコンシーラーを厚塗りしてごまかした。口元は食べたりしゃべったりすると皮膚がよく動くので治りづらい、と先生が言っていた。自然、私はあまり食べずしゃべらず、壁の花にならざるを得なかった。ノリの悪い子だと思われ、その印象を大学4年間くつがえすことは難しかった。
あの春に戻れたら、もっと早くほくろを取って、マスクなしで大学デビューしたかったか、と言えば、そう単純な話でもない気がする。私はそれまで、ほくろがあるから私は性格が暗いのだと思っていた。でも、ほくろを取っても私はやっぱり陰キャのままだった。ほくろのせいにしていただけだった。いっそ、ほくろをとったことを正直に話していたら、何か変わっただろうか。