小学生の頃から八方美人だった私。そんな生き方向いていなくて…
あらゆる人から良い人と思われたい、そんな私の見せ方は、なんでも受け入れるYESマン。そう言うと聞こえはいいかもしれないが、俗にいう「八方美人」
私はこの見せ方を卒業した。
小学生の頃にこの見せ方は形成された。学校という小さな世界で生き残るため、自分を守る手段だったのかもしれない。どこかに属さないと孤独になる、どこかに属したとことで孤独にさせられることもある。だから私は、色んなグループに属することで孤独を回避しようとした。そしてそれは上手く機能しこのやり方で大丈夫、「八方美人」が最高の自分を守る矛だと考えたのだ。
たまに二つのグループの喧嘩に板挟みになる事があった。そのたびに先生が威勢を張り、話し合いを開催した。その話し合いで私は友人に聞かれた
「どっちのグループに入るの」
先生も真剣な表情で私を見つめた。ちゃんちゃらおかしい、根本的な解決はどうなった。
「どちらにも入りたくない」
それが私の心の声だった。八方美人は自分には向いていない、そううっすら感じていた。
「どんな人とでも上手くやっていける」姿に洗脳された
大学入学を機に実家から離れることになった。空港の保安検査場で母に別れを告げるとき、「八方美人」な自分ともお別れしていたのかもしれない。
大学で1人の女の子と出会い、私の考え方は変わった。
その子とは地方出身ということもあり、一人暮らしあるあるなど何かと同じ話題で盛り上がることがたくさんあった。授業中、休み時間や昼食時間も一緒に過ごすくらいだった。
しかし、仲が深まるほど徐々に違和感を感じ始めた。打ち解けてくれているからこそ言ってくれるのだろうとは重々承知の上でも耐え切れないほど負の考えや友人への愚痴が止まらなかった。休み時間が来るのが億劫になる程、精神的にも参ってしまっていた。
私は、どうしてこの子と一緒にいるのだろう。
ふと、自分に投げかけた。
全てを受け入れる。それが正義であり正解だと思っていた。
どんな人とでも上手くやっていける。
みんなと仲良くなれるタイプだよね。
その褒め言葉はすごく嬉しい。
その一方で、周りからそう言われるうちに自分のあるべき姿だと洗脳されていった。
だから、どんな人でも受け入れなければ、それが自分の取り柄だと。
見せ方見られ方を変えることは生きやすさにつながった
昔から、苦手だなと思う人ともどうせ半年経てばクラスが替わるからとか、期間限定であることを糧に八方美人を続けてきた。
私は、ずっと期間限定で人間関係を作っていくのか。今までは迷うことなくYESと答えていた。しかし、実家を出ていい意味でも孤独を体験することで、多少孤独でも生きていけると確認することができた。孤独を恐れて八方美人に徹し友人を遠ざけることを避けてきた私は、何かから吹っれたようにこう思った。
みんなに好かれる必要はない。
みんなに好かれるなんて、さらさら無理だ。
八方美人を卒業しよう。
みんなと仲良くなれるタイプという、褒め言葉の呪縛から抜け出そう。
友達も取捨選択していこうと決めた。
それからの私の見せ方は180度変わった。どんな風に見られても構わない、それが私の見せ方なのかもしれない。私を好いてくれる人もいれば嫌う人もいるだろう。私のことを嫌う人に好きになってもらおうと時間を割くことはせず、同じ時を共有して楽しいと思える人と一緒にいる時間を増やそう。これからは期間限定ではなくずっと共にいたい人と。
見せ方、見られ方を変えただけで、かなり生きやすくなった。
かつては八方美人な「欠点のない美人」でいようとしたが、欠点のたくさんある人間味たっぷりの凡人を選んだそんな話。