わたしは昔から「女の子らしくない」子どもだった。
恐竜やきのこ、妖怪が好きで、それらの図鑑を眺めたり、外へ冒険に出かけて蜂や蚊にたくさん刺されたりするような。

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大きくなるにつれて、周りと比べられたり、周囲の大人からは「男女」とからかわれたりすることも増えていった。女らしさというものに馴染めず、その呪縛がいつしかどろどろとしたひずみのように、自分の中にしずんでいったのだと思う。「女らしさ」と一言でまとめてしまうと、見えなくなってしまうものがあるような気がして、「女らしさ」とひとことで言い切ってしまうことには抵抗がある。それでも、当時の私が感じていた違和感は、社会から一括りにされてしまうこと、こうあるべきという価値観が私をがんじがらめにして、自分を疑うことしかできなかったことだったように思う。できるだけ人目に触れないように、人に変だと思われないように。

大学生のころ、友人が開催したセクシュアリティのワークショプに参加した。そこで初めて、私はセクシュアリティが多様であり、ひとりひとり異なっていて、流動的であると知った。私は私のセクシュアリティを様々な視点から複合的に理解することができた。私はXジェンダーで、異性愛者。一部分ではマジョリティになり得て、他の面ではマイノリティになり得る私たち。違和感の正体が名づけられて、私は安心感で満ちていたことを今でもおぼえている。私は初めてちゃんと「わたし」を見つけてあげられたのだと思う。

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それでも、この社会で生きていくことは、私にとって疑問や違和感に定期的に出会い続けることでもある。まるで深い砂が広がる大地を必死に前へ進もうともがいているようで。20代になり、恋愛や結婚、パートナーがいることがいちばんの幸せかのように見えてしまうSNSに触れ、無意識にそれこそが幸せの形で、それを得られない人は価値がないかのように思わされてしまう。私がほんとうに大切にしたいことは何なのか、これから何を選択すべきか。考えても考えても答えが見つかることはなく、私を私たらしめているものがぼんやりと漂って宙に消えていくようだ。個人の傷やアイデンティティを抱えて生きる私たちは、ひとりひとり異なっていて、複雑で、矛盾している。

それでも、そんな個人の物語や複雑性、矛盾、感情をなかったことにせず、表現し続けたらなにかが変わっていくかもしれない。それらを丁寧に、正直に表した本が、私にそう信じたいと思わせてくれた。まるで友人のように、私のそばにいてくれた本。

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今は、私が「わたし」として生きていくことに罪悪感を覚えないし、昔のような不安やもやもやに覆われすぎることはない。社会の方に問題があることを知ることができて、私が感じる怒りや悲しさも、全て大切なもので、表現することによって消えていくことはなく、私の存在が消されることはないと知ることができたから。なかったことにされるのではなく表現すること、書くこと、そうやって生き抜いていくこと。正直にパワフルに表現する人たちの文章を読んで、「ああ、やっと少し息ができる」と思った。私が存在していたこと、私の感情、複雑性、矛盾、物語を書くことによって受け入れたい。そして、私自身のためにそこにあるものとして見つめてあげたい。